祇王寺


 ひらひらとまた一枚、また一枚と役割を終えた枯れ葉が舞っている。
物静かなやすらぎを求めて人々は嵯峨野にあるこの小さな寺を訪れる。しかし、そこにあるのは喧噪である。この時期に静かな情景を期待するのはいささか無理というものだろう。

 紅葉が売りではある。が、京都で紅葉の名所といえば珍しくはない。すばらしい庭と高い格式を持つ紅葉の名刹は多い。紅葉を売りにしてもいかほどのこと。この寺は寺というにはひかえめすぎて格式などとは無縁である。意匠を凝らした庭らしきものもない。まさに雑木のような楓と竹の林の中にポツンとある草庵といった方がふさわしい。 しかしこの寺には密やかで、もの悲しい物語がある。

 西に愛宕山があり、その麓にある。日が早く落ち、ゆく秋の切なさを求めるには格好の場所ではある。その物寂しさと対比をなす鮮やかな紅葉が見せる魂のきらめきを求めて、人が来る。私も惚けたようにその群の中にいる。行列の後ろに並び、はや暮れかけた境内に足を踏み入れる。こぢんまりとした楓の林に、予感を裏切るものはない。 所々に紅をさした楓の木々を分け入るようにして、か細い散策路が綾をなし、人々が数珠を並べたかのように連なる。一休みする余裕すらない。

 訪れたときはすでに秋は遠のいていた。たくさんのきらめきを失いかけた落ち葉はその軟らかい地面を覆い、淡い茶色の羽毛布団のような海の中に、衣を脱ぎ捨て、しなやかな肌をさらした楓の木々が時を紡いでいる。
時折日差しが思い出したように降りそそいで、縞模様をなし、きらめきがはしる。そのとき、すがすがしく引き締まった景色となり、そのためか思った以上に境内が広く感じられる。
足元にはわずかな水滴をとらえ、きらきら光るスギゴケがところどころに顔を出しては鮮やかな対比をなしている。

人々は晩秋の雲とともに急ぎ足で駆け抜けていく。
ここにゆったりとした時を持つことができるなら。
誰しもの思いが不思議と共有される。
それにしてもこの喧噪の中の静けさはなんだろう。

 気まぐれな風が、葉達を踊らせる。ふと思い出したかのように、枝が揺らぎ、あわてた枯れ葉達が川をなす。さざ波のように小さくなったり大きくなったりしながら、命を譲るように葉が落ちてゆく。

 祇王寺は不思議なお寺である。清盛に寵愛を受けた、踊り子である白拍子の祇王が、同じ白拍子の仏御前にその愛を奪われ、妹と母の刀自とともに剃髪して庵を結んだところであるという。その後、かの17歳の恋敵もまた尼として、ともに四人で暮らしたという。四人の女性は無常を感じ、悲しい日々を送ったという。

 お寺というにはあまりに小さく、草庵にしても生活のできる空間はあまりないように見えた。本当に慎ましく生きたのだろう。今は盛りを過ぎてしまったが、すばらしく紅く染まるというこの庭では、世をはかなんだ女性達の情念が楓の葉に色濃く映し出されるのであろうか。

 女性四人の木像の中央に小さな平清盛像があった。栄華を極め、最後は蟻のように死んでいった清盛と彼しかいなかった世界でうち捨てられ、この寺でひたすら浄土を願い念仏三昧の生涯を送った彼女たちのいったいどちらが幸せだったのだろうか。

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