旅行
イタリア・ミラノ
1日目
4時起き。しっかりと目覚ましが鳴る直前に目が覚めた。わざわざ目覚まし時計を4400円かけて買ったのに。念には念を入れておかなければ行けないと思った。6時5分発の新幹線に遅れると、飛行機に乗れない可能性があるのだった。用意は完璧だったが、ばたばたしているうちにタクシーが5時25分に来た。岡山駅。6時5分の新幹線で新大阪。はるかを乗り継いで関空へ。はるか遅い。60分もかかった。10時25分に関空到着。集合は4階南に10時15分。個人ツアーなのだが、JTBの個人向けツアーの航空券を取っていたので、JTBのカウンターで手続き。航空券をもらい、スーツケースを運んでもらった。出国審査を受け、モノレールに乗って11番へ。一番端である。もうかなりたくさんの人々が座って待っていた。ゆっくり待つ時間はあまりなく、マイレージのポイントをつけてもらい、9時55分搭乗。
すぐに満員になったよう。がっちりとしたいかにもといったドイツ女性アテンダントが迎えてくれた。少々おばちゃまである。一人日本女性がいた。こちらは若く美しい人だった。アナウンスでアジア方面が混み合っていて出発が遅れているということだった。10時45分頃離陸。難なくスムースに離陸し、ほっと一息。
ぐんぐん高度を上げ、安定飛行に。すぐに飲み物などを持ってくる。とりあえず水を飲む。意外と暑くなく、僕はアルマーニのジャケットを脱がず、しかも毛布を足下に掛けて普通ぐらい。身の回りのものをチェックした。テレビ、イヤホン、耳栓やアイマスク、歯磨きや歯ブラシもある。持ってくるんじゃあなかった。プロテカのバッグに入れていた、スリッパを出し、履き替える。イスはいろいろな調節が利き、水平にもなるようだ。
僕は右側だった。窓から外を見ると、山が見える。どこか分からない。 そうこうしているうちに昼食だ。メニューが来ていたが洋食だと思っていたら、和食がある。ウナギやらおすまし、ご飯など結構おいしかった。ゆっくりと運んで来るので、時間が結構かかるので、ゆっくりと食事を楽しむ。デザート、コーヒーまで飲んで食事が終わり、僕はしばらく外を眺めていた。山々が見える。もう韓国あたりだろうか。どこだかよく分からないが、しばらく窓の外を見ながら、目の前のディスプレイのチャンネルを変えていろいろと見てみる。キャメロン・ディアスのカジノの映画があったが日本語はなく、英語で見た。半分くらいしか分からない。その後、日本語の宝探しの映画を見て、6〜7時間くらい経ったところで、周りの人たちは窓をどんどん閉めて機内は暗くなってきた。僕は窓を小さくして外の景色を見ていた。下は雲がぽこぽこ浮かび、地上には砂漠が見えていた。モンゴルやその先の中央アジアと思われた。しばらくDVDを見ながら、外の景色を時々見ていたら、斜め後ろの人、日本人だが、その横のドイツ人女性がまぶしいので窓を閉めてくれということだった。たくさんの周りの人は眠っている。そこで初めてこの時間は眠るためにあるのだと分かった。ただ、僕ははじめの日はできるだけ眠らないで我慢しておくのが、時差ぼけにいいという話を聞いていたので、我慢していた。しかし、着くのは真夜中になってしまうので、少し眠ることにした。1時間ほど眠った後、また、DVDを見て、10時間ほど経った頃、夕食になった。夕食も日本食。おいしかった。何だったか忘れた。 食事が済むともう少しだ。たまたまフライング・インフォメーションというプログラムを見つけ、今どこを飛んでいるかを見つけた。すでにモスクワを越え、オスロの近くのようだった。時々外を見た。田園が広がっている。高度を下げ、フランクフルトに着いた。
街はとてもきれいで田園と森が広がり、街はすべての屋根がオレンジ色で、マッチ箱のような家が並んでいた。フランクフルトは大都会で高層ビルもたくさん見えた。 無事着陸。Cターミナルについた。非常に大きな空港で、transferを目当てにどんどん歩いた。日本人の団体も追いついてきていっしょに歩いた。歩いても歩いても離陸ターミナルのAまでははるか先だ。途中にお店が見えてきた。免税店である。ようやく税関が見えてきた。ツェンゲン協定かなにかでユーロ圏に入るときに、入国管理をするのである。 とても厳しそうだった。上着もポケットの中もすべてチェック。アルマーニのベルトが引っかかった。それにしてもドイツ人はどいつもこいつも背が高い。トイレはきれいだが、高さが高いのには参った。
途中でA25ターミナルがA32となりさらに遠くなったがゆっくりと歩いた。すでに日本時間で11時頃である。眠くない。そのターミナルにようやく着いた。周りには日本人は一人もいず、不安だった。スーツケースがちゃんと届くのだろうか。2時間と40分後ルフトハンザ機はミラノに向かった。この飛行機は国内便に近く、3列のシートを真ん中を開けて座った。すぐに食事が出た。シンプルな軽食のようなもので、これはあまりおいしくなかった。しばらく雲の中を飛んでいたが、気分的にはすぐに下降を始めた。もうアルプスを越えたのか。うまく見えなかった。雲を通り抜けるともうイタリアだった。サンシーロサッカー場と思われるスタジアムが見え写真を撮ろうとしたが、遅かった。ぐるりと回転してリナーテ空港へ。あこがれのイタリア。ついに来た。空からの景色は予想されたとおりだった。美しいオレンジ屋根の街の景色と田園。
リナーテ空港にほとんどショックなく到着。ターミナルはエンポリオ・アルマーニのマークが着いていた。さすがだ。降りて、すぐに荷物が出てきた。やはりビジネスはいい。またスーツケースも色が派手なのですぐに分かる。そのまま入管手続きがないので、そのまま歩いて出口に向かったら本当になにもなく、空港の入り口に出てしまった。あれあれと思い、右の方向に歩いていったところ、何人かが迎えに来ていたのでそちらの方に向かったら、「妹尾様ですか」という声。はっとしてそちらを見たら、優しそうなイタリア人、リオさんが迎えに来てくれていた。JTBの人でイタリア人だった。もうぺらぺらの日本語にびっくり。すぐにバンに運転手さんが荷物を運んでくれ、そのままホテルへ直行。ミラノまですぐらしい。すごいスピードで走る。その間、いろいろリオさんがミラノのことを教えてくれた。ミラノはやはり少し暑く、湿度が高い、今の首相のベルルーニが治安に力を入れ、ミラノには警官が多い、中に機関銃を持っているのもいるなどといった。ちょっと安心した。彼は名古屋に6年間住んでいたという。奥さんが日本人でこちらでJTBのツアーの仕事をしているらしい。
ことば使いも本当に日本人の発音で丁寧すぎるようだった。街の中に入り、両側に大きな並木道を走り、石造りの建物の間を細くなる道をずんずんと走った。そのうち、とても細い通に入り、車が止まった。手前にグレーのSLRマクラーレン・メルセデスと淡いエメラルドグリーンの非常にきれいな色のランボルギーニが植木の間の狭い空間に止まっていた。僕は思わず「すごい車が止まっているな」というとリオ氏が中東から飛行機で運んでくるんですよ、と言った。こちらで乗るために持ってくるんです、と。1台500万円とのこと。これに加えて非常に大きなベンツが奥の駐車場に泊まっていて、これも彼らの家族が動くために、飛行機で運んできているらしい。まあすごい。桁違いである。そのまま建物の真ん中にある変哲もないホテルの入り口を入った。中の雰囲気はさすがと思わせるものを持っていた。中央に地階に降りる階段。正面にレストラン、左にソファが並んでいるフロア、右にフロント、正面のレストランの向こう側に修道院であった頃のそのままの中庭が見えた。着いたのは7時頃だったと思う。ソファでやっと着いたという安堵感でほっとした。隣に日本人の若者が座っていた。しばらくするとその両親と思われる、お金持ちそうな人たちが来て、どこかに行った。リオ氏がチェックインを済ませてくれ、いろいろ市内の説明を受けた。レストランの名前を教えてくれ、休みが多いということだった。お礼をいい、フロントの前をボンジョルノといって通り抜けた。
オ・プレノタートと言おうと思っていたのに残念。フロントの女性が部屋まで案内してくれた。一階の一番奥の角部屋だった。立派な部屋で広い。エクシブで驚きはしないが、70m2位だろう。浴室はとても広く、シャワーブースが別なのも良かった。ビデもあった。テレビはフィリップス社製、小振りの冷蔵庫は満タン、なんと浴衣がおいてあった。うれしかった。とりあえずなんとかたどり着いた。うれしかった。夢のイタリアだ。窓からはもう一つの中庭が見えた。明かりがロマンチックである。8時過ぎだが、外はまだ明るい。もう食べられないので、どうするか美智子と相談して疲れているけれどちょっとだけ歩いてみることにした。玄関を出て左に折れるとすぐにモンテ・ナポリオーネに出る。石畳。人通りは少ないが、超有名ブランドが軒を連ねる通りである。すべて店は休暇に入っているよう。サン・バビラまで行き、ウピムというスーパーを見つけたかったが分からなかった。ぐるりと歩いている内にさすがに疲れが出てきて帰ることにした。夜の帰り道はとても美しかった。疲れ切ってそのままお風呂に入り就寝。ぐっすり眠ったよう。 夜中にトイレに起き、水が流れなかったのが、ちょっと不安。こうして一日目が終わった。
2日目
昨日はトイレの一件があり、夜中に目が覚めてしばらく起きていたが、その後しっかり眠っていたようだ。朝、8時過ぎに目が覚めた。頭など痛くないし、時差ぼけのような感じはない。妻も起きて、用意をして朝食を摂るためレストランへ。1回のベランダというレストラン。フロントの美しい女性に「ボンジョルノ」と挨拶。にこっと笑って「ボンジョルノ」と返してくれた。トイレの一件を話さなきゃ。後で。
窓とは反対側に腰をかけると、白い制服のウエイターがやってきた。とりあえず朝食はコンチネンタルに。まずは水。普通にいうとガス入りが入るということで、アクア・ミネラーレ・ナチュラーレと注文する。それにオレンジジュース、これもスッコダランチャというとにっこりしてくれた。コーヒーはふつうに頼むとエスプレッソが出てくるのでカフィ・アメリカーナと注文。すべてデゥーエだ。ヨーグルトはプレーンを食べた。これが毛こう美味しかった。美智子も普段は食べないのに、美味しいと行って食べていた。 朝食を終え、用意をしてミラノを散策だ。
ホテルの前がジェス通りで隣にブリオーニの店があり、これは閉まっていたが、ホテルを出て突き当たりが有名なモンテナポリオーネ通りである。これをサン・パビラの方向に歩く。このあたりは超有名ブランドがずらりと並んでいる。しかし、8月ですべてしまっているか、夏の休暇の間に内装工事をしていた。ジョルジョ・アルマーニのショップもあったがこれも改装中。サンタンドレア通りを右に曲がり、ドゥオーモに向かう。メダ広場が工事中で右に迂回して突き当たりを右に曲がると突然小振りな広場に出た。教会と銅像が立っていた。これがサン・フェデーレ教会でサン・フェデーレ広場だった。恋人達が石のベンチ座って時間を楽しんでいるようだった。暑くはない。ここで写真を撮り、右手マリーノ宮の大きな石作りの建物の中庭を覗きながら進むと、ヴットリオ・エマヌエーレ2世のガレリアの入り口にたどり着いた。右手にスカラ広場があり、たくさんの人たちハトとその向こうにあの有名なスカラ座が見えた。今は8月なので残念ながら公演はない。
もっともあったとしてもなかなかチケットは取れないらしい。良い場所は年間のファンに押さえられているそうだ。比較するのは申し訳ないが、劇団四季などと同じ状況なのだろう。さていよいよガレリアに入ってみる。入り口からしてすごいアーケードである。よくもまあこれほどのものを造るものだ。アーケードそのものが芸術作品である。たくさんの人々が歩いている。皆さんバカンスモードで、ミラノらしいファッションはあまり見られない。入り口のところで二人の若者がバイオリンを弾いていた。日本のギターを抱えたストリートミュージシャンと同じだ。クラシックを演奏しているところが日本と違う。開かれたバイオリンのケースに小さな子どもがコインを入れていた。結構うまかった。
ガレリア内はヴィトンやグッチのショップがあり、これらは開いていた。マクドナルドもあったが、赤くなく黒かった。ガレリアには色々な店があり、彫像の店もあり気を引かれたが我慢。 そのままガレリアを抜けて、どーんと左手にドゥオーモが目に入った。広場にはたくさんのハトと人。そのままファサードを見上げてひとしきり感嘆の声を上げる。
ドゥオーモに入るのにとても厳重な警戒態勢がしかれていて、金属探知機でチェックされた。入るのにはタンクトップや肌をあまり露出している人は入れないので、方にタオルなどを掛けて入っていた女性が多かった。また、入り口の左手には水のペットボトルがたくさん並べられていた。水を持って入れないのかと思ったが、これは後で聞いた話だが、死の病で寝たきりになった女の子に水をあげるということで誰かがペットボトルを置くようになったらしい。
ドゥオモは非常に荘厳な雰囲気、天井がひたすら高い。しばし、その空気に飲まれる。牧師がお話ししているのが響いてくる。大勢の訪れた人たちの流れに乗りながら、壁の絵や彫刻を眺めながらゆっくりと堂内を歩く。ステンドグラスがすばらしくきれい。数百年も前のものとはとても思えない。一回りして、外に出て、屋外テラスに向かうことにした。ここにも警察官のような人たちがたくさんいてその1人に聞いた。左にどんどん回ったらエレベーターがあるというので、ぐるりと回った。行列ができていて、その後ろに。5分ほど待って入り口へ。1人7ユーロ。ここでも金属探知機。狭いエレベーターで一気に屋外テラスへ。
狭いエレベーターを出ると、ドゥオモの屋根の端の部分に出る。かなり高い。まずは左方面、つまり広場とは反対方向、東に向かった。周りには壁面、軒の部分中央部に装飾としての彫刻がそこいら中に飾ってあり、壮観である。よくぞここまでという感じである。ぐるりと回ることができ、ミラノ市内を一望できる。晴れた日にはアルプスが見えると聞いていたが、晴天ではあっても眺望は今ひとつで山の陰すら見えなかった。対面の建物の屋上におもしろい彫像があった。屋上にまで装飾をするのだ。このあたりは本当にすばらしいと思う。日光東照宮の猿と同じようなものなのだろうが、桁違いの感が否めない。
一部工事をしていて回り込むことができず、またエレベーターの所に戻って、ドゥオモ広場の方に向かう。アーチ状になった潜り戸の様な建築物もあり、本当に手が込んでいる。 ファサードの横からファサードの内側を登る。かなり高く背筋がぞくぞくする。広場がよく見え、たくさんの人々が小さく見える。登り切ったところに屋根部分にでることができ、歩く。 尾根伝いに歩く感じ。一番高いところまで登った。雨樋も怪物のような魔物よけなのだろう、石で丁寧に造られている。にあまりにもすごい石の装飾だが、数が多すぎて見慣れてしまう。膨大な時間と労力が費やされたのだろう。いかに教会の力が強大だったかを今思い知らされる。
エレベーターで下に降り、周囲を散策。最初の計画では今日の間におみやげを買い込んでパックし、日本に日通で送るつもりだった。そこでドゥオモのすぐ北側にある、ミラノ唯一のデパート、リナシェンテを見つけ、入ってみた。見た感じは日本のデパートと同じ。イケメンが香水を売っていたが、そこら中にその香水を振りまいているのですごいにおいがしていた。まず地下に行ってみた。50〜70%オフと書いてある。アレッシとかモダンなデザインのものが多いが、普通に日本で見かけるようなものも結構ある。安くなっているようだが、それでもとても高い。アレッシーのデザインの日本でも売られている爪楊枝入れが20ユーロだった。日本では2500円ほどだったのでそれよりもかなり高い。そうやってみてみると色々なものがとても高い。
とりたてて買うものがなかったので、上に上がっていった。フロアに全く表示がないので何階かも何を売っている階かもよく分からない。とりあえず7階に上がると食品を売っていた。小さなレストランと喫茶店のようなコーナーもあり、回転寿司もあった。回転寿司は日本人が握っていた。カプセルをかぶせられたすしが回っていた。お客も結構いた。人気があるらしい。
敬愛するO先生からリゾットを頼まれていたので、リゾットを見た。よく分からないが、一つ選び、後はお菓子類をおみやげとして4個ほど買った。結構高い。ダイナースカードが使えた。1個6〜8ユーロくらいのものを選ぶ。おなかがすいてきたので、通路の横にある普通のレストラン、日本だと喫茶店のような所があり、軽食のようなものを食べていたので、僕たちもそこに入ることにした。若いカメリエーレ(ウエイター)が来たので、「アクアミネラーレ・ナチュラーレ、デゥーエ ペル・ファ・ボーレ」と頼んだ。シーといって彼はリストを置いていった。その間に僕たちは何を頼もうかと思って、一番上にあるパニーノを2種類、多分チーズが違うのだが、頼んだ。水を持ってきた彼が3.5ユーロの請求書を置いていった。「えっ」3.5ユーロ。信じられない。591.5円もするんだ。あらためてパニーノの値段を見るとそれぞれ9と11ユーロだった。
大きな犬が歩いてきた。リードは付いている。しばらくするとテーブルの下にごろりと寝転んだ。これが普通の姿だ。
しばらくしてパニーノが来た。イタリア独特のサンドイッチである。野菜、プロッシュトというハム、チーズをのせたものだ。これが1700円とは。日本なら700円くらいの感じ。その後同じフロアでミネラルウオーターを買えたのだが、1.5ユーロだった。場所代がすごいのだ。トイレを使っておかないとと思い、「Dove il vagno?」と聞いた。通じた。「ウーモ、デストラ」「ドンナ シニストラ」という。分かった。トイレはきれいで個室。水を流すのに足下にあるゴム製のボールを足で押すのである。おもしろかった。リシュナンテを出て、少しガレリアの中の店を見て歩いた。 おみやげなど荷物があるので、地下鉄を使っていったんホテルに帰ることにした。ドゥオモから3番線(黄)でモンテ・ナポリオーネに行く。ドゥオモは町の中心なので、地下鉄も2本が交わっている。とりあえず練習だ。地下鉄は地図はなく、方向の掲示もほんのわずかしかなく、駅員もあまりいない。最終駅をきちんと確認して乗らないと大変なことになる。地図と確認しながらホームを選ぶ。チケットの自動販売機の数がとても少なく、日本のように一度に2枚買えない。とても不便。何とか二人分買え、乗り込んだ。エアコンはなし。暑い。カラフルだが、あまりきれいな電車ではない。次の駅なので、すぐに降り、地上に出た。地上に出方もどちらに出たらいいのかよく分からない。表示が極端に少ないのだ。ホテルとは違う方向に出たみたいだったが地図を確認しながら、モンテ・ナポリオーネ通りに向かって歩いた。すぐ左にアルマーニビルがあった。残念ながら、閉まっていて、工事中だった。ここに是非行くようにと天満屋のアルマーニショップの女性達に言われていたのに残念。ホテルで少し休んで、2時半頃になったので再び地下鉄でドゥオモへ向かった。4時15分に予約をしたレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見に行く予定が入っているので、地図を確認。ドゥオモから地下鉄に乗ることに。ドゥオモからは地下鉄でカドルナまで行く予定。赤の1番線だ。地下鉄の駅の名前は中央部はすべて頭に入っている。ドゥオモ→コルドゥシオ→カイロリの次である。方向が最終駅をはっきり覚えていないので地図で確認。地下鉄は初めてなので緊張。表示されている地図がない。極めて不親切である。次の駅の表示もない。不安ながら待つこと数分で電車が来た。暑い。エアコンというものはないようだ。次の駅は本当にすぐで名前がコルドゥシオなので一安心。カドルナで降りて地上に出るがどちらに行ったらいいのか全く分からない。この駅はすぐに私鉄のノルド駅につながっている。地図をじっくり見ながら左手にお城のような壁が見えたので、これがスフォルツェスコ城と判断し、反対の方角へ。まず大きな通りが5方向に分かれていたので、地図を見ながら移動。途中確認のために歩道にいた女性にサンタ・マリア・デッレ・グラツゥエ教会はどこかと聞く。まっすぐ行って右にずっと行けば良いよすぐ分かるよと英語で親切に教えてくれた。そこから暑い中、日差しがきついので日陰をもとめて結構歩いた。右手にサンタ・マリア・デッレ・グラツッエ教会のクーポラが見えた。
石畳の道路を渡ろうとしたが、トラムのレールが滑りそうだが、猛烈な勢いで大型のスクーターが走ってくる。車も速いがスクーターが多く、しかも猛烈なスピードだ。道路を横切るのもかなり危険を感じた。ただし、交通量はバカンスシーズンのためか少ないのだろう。3時55分に教会の横の受付の建物に入ったらかなりの人がチケットを買おうとしていた。ここはちゃんと予約をしていないとなかなか入れないのだ。僕たちはわざわざチケットを手配してもらったのだが、チケット代が2600円で手配料が5200円だった。ちょっと高すぎるなと思ったが仕方ない。次は自分でインターネットで手配しようと思う。
さて約束の時間(4時15分)まで少しあるので、教会を見ることにした。壁ごとに宗教画、マリア様やキリストの絵が、聖書からのものだろうが描かれている。クリスチャンではないし、さほど興味を感じない。教会の内部はさすがにきちんと造られていて、きれいだったがドゥオモを見た後では迫力は無かった。
時間になり、24人ずつ中庭を通り、ドアを3つほど越えていよいよ「最後の晩餐」とご対面。うーん、これがあの有名な…か。ついに目の前のこれが…か。同時に入った人たちはしきりに携帯のような説明を聞いている。それも日本人が多い。僕も説明を聞くべきだったし、あらかじめもっと勉強してきても良かったなと思ったが、そのものを直接見ることによってどんな感じを受けるのかが知りたかったのだ。
一言で言うと「ふーん、これが」というものでさほどの感動はなかった。むしろ机とお皿の位置とかに不自然さを感じた。 15分間はいろいろ移動しながらイエスよりはマグダラのマリアをしっかりと目に焼き付けた。鑑賞を終わって、外に出て、カルドナ駅の方に向かったが、教会をすぐに左に曲がると教会の裏口があり、小さな裏庭があり、可愛い噴水があった。風が心地よくしばらく座って教会のクーポラを眺めていた。
さて、これからどうしようかと考えた。ガリバルディ駅周辺にあらかじめチェックしていたお店やレストランがあるところがあったが、昨日、リオさんに教えてもらっていたサンタンブロージュ教会周辺にレストランや通りに面したお店など良いところがあると聞いていたので、そちらに向かうことにした。カルドナ駅から地下鉄2番線(グリーン)に乗った。サンタンブロージュ駅は次だったので、ここで降り、方向が分からず、近くを歩いていたかわいい女性にサンタンブロージュ教会の道順を聞いた。すぐそばだった。
ここはミラノの守護聖人アンブロージュが祀られている教会で、386年にアンブロージュ自身の手で着手されたという。ロンバルディア・ロマネスク様式の傑作といわれているらしい。なかなか趣があった。もう閉める時間らしく人はあまりいなかった。入り口の手前に怪しげな人物がいて、パニーノのようなものをくれというようだった。物乞いである。そのまま教会にはいると厳かで静かな時間があった。広場には高い塔と石造りの風呂桶のようなものが立てかけられていた。
そこから南の方角に進み、ピッツェリア・トラディチオナーレを目指した。このあたりは住宅地のようだが、全く人通りが無く、車も少ない。窓も閉まっている。この地区の人々はバカンスに出かけているのだろうか。ごく普通の大通りの道に沿った歩道をよくわからないまま歩いた。怪しげなカラードの2人組が後ろをついてきたので、とても警戒した。通りにあるレストランも全部閉まっている。いやな予感を感じながら交差点に出た。リオさんの書いてくれた地図ではこのあたりだが、分からない。小さいとおりに入り、犬を散歩させていた2人づれの若い女性に聞いてみたが、そのレストランは分からないようだった。その代わり、突き当たりを右に曲がるとにバジリカ(古い教会:サン・ロレッツオ・マッジョーレ教会)があるのでそのあたりにはレストランがあるから行ってみてと教えてくれた。
そのまま歩くと、その教会があった。ここは2世紀に造られた古代のローマ時代の柱がそのまま残っていることで有名である。ここの奥に聖アクイリーノの礼拝堂があり、必見とガイドブックに載っていたが、この頃には妻も僕も疲れ果てて、足もだるくなり教会の写真だけをとった。教会は荘厳な雰囲気で歴史を十分感じさせてくれた。そして、気を取り直して立ち上がり、そのあたりにはバールがあったので、その辺で食べようかなと考えながらうろうろ行ったり来たりした。目の前をトラムが往復していた。サンロレッツオ・マッジョーレ教会の裏手にはいわゆる原っぱのような広場があり、細長い形のようだったが、かなり広く若者達がサッカーボールで遊んでいた。皆かなりうまい。教会の壁に向かってボールをけっていた。そのすぐそばで恋人達が抱き合っていて、しばしばボールが飛んできていたが、彼らには関係のないことのようだった。ここは風が通り花も咲いていて、少々蒸し暑かったが心地よい空間だった。若い母親が赤ちゃんを乳母車に乗せて、日陰で涼んでいた。教会の裏側には壊れた建物がレンガが崩れたまま残っていた。これも教会の一部の遺構のようだった。残念ながらここには壁という壁に大きな落書きが書かれ、たくさんの紙が貼られていた。これは全然良くないと思う。その反対側にはカラフルな住居が並んでいた。いわゆる新興住宅地のようだった。蚊の気配がしたので、そこをまた逆に戻り、教会の広場の横に出た。
形はとてもしっかりとした形状で基礎となっている大きな長方形の石に腰をかけしばらく考えた。両側にレストランがあるが、灯りはついているものの開いてはいない。バールが2軒あってここにはおじさん達がビールやらエスプレッソを飲んでいたよう。トラムが行き交う道に出て、どうしようかと考えた。教会と反対側にもレストランがあり、二人の女性がテーブルクロスを用意していた。ここもまだ開いていないよう。少し来た道の反対側に歩いてみたが、大通りになり、こちらには何もなさそう。おじいさんが歩いてきたので、「このへんにいいレストランはないか?」と訪ねるとこの辺にあるじゃないかといい、6時からだろうと言った。しばらくたたずんでいたが、6時になったので、さっき用意をしていた女性に開いてますかと声を掛けるとなんと「オープン、8オックロック」。ええ!8時。聞き直したがそうらしい。信じられん。
イタリアでは夕食は8時頃が普通だと聞いていたが、本当なのだろう。
仕方なく地図を見ながら、歩いてきた方に戻り、突き当たりをトラムが多く進む方向に歩き始めた。ここはトリノ通りというのを後で知った。トラムに乗ってみたかったのだが、トラムの終点が今ひとつわからないので、乗るのは少し難しかった。結局僕は地図を間違ってみていた。トラムが地図に書かれていなかったので、道路を一本間違えたのだろう。とりあえず二人とも足も腰もがたがただったが、ゆっくりと通りの大きい右の方向に歩いた。歩いている人の数が増えだんだんにぎやかになってくるのが、心の支えだった。くたくたになって通りにバールがあったので、水を買い、いすに座って飲んだ。そばにカラードの男がミサンガの束を持っていたので、妻に警戒するように話し、そちらの方をじっと見ていたら、僕たちには目もくれずいってしまった。ほっとした。
それからまた歩いていると、リストランテの看板があり、それにしたがって少し小さな通り入ると小さなリストランテがあった。水とキノコとボンゴレのパスタとクリーム味のものを注文した。味が少々濃かったが、まあまあのおいしさ。妻はそれほど日本と違わないねと言った。2人分だがそれほど多くて困ることはなかった。 チップを置いてくるのを忘れた。店を出て、またとぼとぼ歩いていると、なんとドゥオモ広場に出た。とりあえず方向は間違っていなかったのだ。 それからまた少し元気を取り戻し、おみやげを買うことにした。
少し歩いたが主だった店は休んでいて、結局リナシェンテに入った。お菓子と妻のベストのような半袖のカーディガン、息子のTシャツと財布。なかなかセールのものでは良いものはない。さらにくたくたになり、また、地下鉄で帰った。ドゥオモ駅で地下鉄に乗り込んだとき、妻が2人のカラードの男達にこちらに来るのを遮られた。僕はあわてて彼女の手をぐいと引っ張り、こちらに来させ、シートに座り、彼らをじっと見た。どうもあやしい。すぐに別の同じような男が閉まろうとするドアから無理矢理に入り、腕をドアに挟まれた。前の二人のうちの1人がこの挟まれた男の腕を引っ張り出し、ようやくドアは閉まった。このとき彼らのいた同じ側の座席には女性が4人ほどいたし、僕たちの隣にはイタリア人のきちんとした中年の男性がいたが、知らんぷりをしていた。僕は彼らをじっと見た。後からはいって来た男は僕たちの斜め前に座りしきりにズボンが入るときに汚れたのだろう、しきりにてで払っていた。この3人はいったい何だろう。仲間なのか。お互いに知らん顔をしているし、僕たちの方をみるでもない。僕は次の駅で降りる準備をしてついたらすぐに妻を促し、走って出た。とても疲れていたのに走った。階段を急いで上がり、後ろを見ると彼らも電車から降りていたので、必死の思いで駆け上がった。あわてていたのでまたしても反対側に出た。しかし、彼らの姿は見えなくなったので、本当にほっとした。そこからくたくたになってホテルにたどり着いた。マクラーレン・メルセデスが迎えてくれた。アラビアナンバーであることに気づいた。車は来たときにも見たが、アラビアナンバーを初めて見た。写真を撮っておけば良かった。這うようにして部屋に入り、ほっと一安心。 帰ったらFさんというガイドの人から留守電が入っていた。
★※最後の晩餐 (さいごのばんさん、伊 : Il Cenacolo o L'Ultima Cena) はレオナルド・ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。これはキリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の日に描かれている最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。
絵はミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたもので、420 x 910 cm の巨大なものである。レオナルドは1495年から制作に取りかかり、1498年に完成している。ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷が激しい絵画としても知られている。また遅筆で有名なレオナルドが3年でこの絵を完成しているのは彼にしては速いペースで作業を行ったと言える。「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」は世界遺産に登録されている。 3日目
昨日夜7時頃に疲れ切って帰ったところにガイドのFさんという女性から留守電話がはいっており、電話したところ7時30分位にホテルに来ますということだった。7時10分の予定だったのだが、電車の時間が8時10分だったので、タクシーで行けば10分もかからないので7時30分でいいでしょうということになった。実はこの20分ほどが重要だった。朝食の時間が7時からだったので、7時10分だとちょっと厳しかったのだ。 僕は昨夜はすぐに眠ったらしく5時半頃に目が覚めて目が覚めてしまって、ベッドでどうしようか考えていた。そうしている内に外も明るく美智子も目が覚めたようでそのまま6時頃起き、用意をして、ラ・ベランダへ。誰もいなかったが、コンチネンタルブレックファーストを注文。プレーンヨーグルトがおいしかった。パンはレーズン入りのものもおいしかった。たっぷりジュースと水を飲み部屋に戻り、あわてて出てきたらちょうど7時半になっていて、Fさんがロビーに来ていた。すぐに分かった。しっかりとした人のようだった。妻を紹介し、タクシーでミラノ中央駅に向かうことになった。タクシーが1台いたが、Fさんが呼んだものではなかったが、いいよという感じでそのまま駅へ。乗り込んだとたんにものすごいスピード。走る走る。トラムのレールもものかわ、あっという間に中央駅へ。10ユーロを渡して、残りをチップにとFさんが言いその通りに。9.3ユーロくらいだと思う。
中央駅はとても重厚な建物で非常に雰囲気があった。ここは有名な駅なのだ。エレベーターで2階に上がった。とすごい人混み。みんな大きなバッグやスーツケースを持っている。みんなバカンスに行くのだという。8月になると皆バカンスを取るのだが、3週間から1ヶ月取るらしい。8月の15日は国民の休日なのでその前から込んでくるのだという。
彼らを避け、時刻表と掲示板を確認するようにFさんに言われ、その通りに確認。プラットフォーム、発車時間、列車の確認だ。特にプラットホームが変わることが時々あるらしい。改札はなく、刻印を打ってはいる・・・とどの旅行本にも書いているが、ユーロスターは入らないし、この電車にも入らないということだったが、福田さんは念のために打っておきましょうと黄色い刻印機に切符を入れ、がちゃんと音を立てた。僕たちの持っていた切符は薄く、刻印する場所も少なかったので、福田さんはなんと裏に刻印した。しかも、薄い紙のタイプでよく見えなかったが、彼女によると刻印していればいいとのこと。改札がないので、難なく列車には乗れる。
ICというタイプの電車で、1等の指定席、片側は一列の座席。僕と妻は向かい合って一列のところに座り、Fさんは反対側の通路側に座った。すぐに若い夫婦と2歳くらいの小さな男の子を連れた一家が残りの座席に座った。Fさんは音もなく出ますよというとそのまま電車は何のアナウンスもなく静かにスタート。すぐに田園地帯になった。目の前のこどもがママにくっついて顔をくっつけたり、腕をつまんだり胸に手を入れたり、膝に乗ったりちっともじっとしていない。Fさんはこども好きらしくしきりにこどもに声をかけたり、ママやパパにかわいいねといったりしていた。その間も僕たちにはイタリアについていろいろ教えてくれた。イタリア人は責任をとらないとか、バカンスを取るために働いているとか、全部自己責任であるとかいろいろ。彼女はもう11年ミラノに暮らしていて、それまでは旅行会社の添乗員として、世界中を回ったということだった。三十数カ国回ったという。その後、イタリア語研修のためにイタリアに来て、そのまま居着いたということだった。いろいろ僕たちのようなガイドの仕事があるらしい。
電車はまもなく田園の中を走っていた。山脈を越えてジェノバに入るのだ。山の中に美しい村が見える。1時間ちょっとで山を越え、ジェノバのはいる。ジェノバにはいろいろ駅があり、そこから海岸線を走るようになる。海が見え隠れする。とてもきれいな風景が流れていく。いくつかのトンネルを越え、ようやくサンタ・マルガリータ・リグレという駅に着いた。小さな街であるが、裏手に山があり、オレンジの屋根にピンクや薄オレンジの壁の色の家々がとても美しい。 この町はイタリアの人たちが老後をここで過ごしたいという一番のところらしい。キョウチクトウとブーゲンビリアの濃いピンク色がとても美しく、オレンジの屋根とカラフルな壁そして木々の緑、濃紺の海、抜けるような青空と本当に美しい街である。駅から急な階段を下り、海岸通に出る。日陰は風がさわやかでとても気持ちがいいのだが、一端日光にさらされると、その強い日差しに僕はびっくり。聞くには聞いていたが、これほどとは。日焼け止めを持ってきていなかったので、すぐにFさんに薬局はありませんか、と尋ねると歩いている歩道のすぐ前にファーマシーがあった。ラッキイ。すぐに入って、一番いいのを買った。日陰に入ってすぐに3人ともそれを塗った。僕はおしろいのように厚く塗り、福田さんに失笑を買った。これは結構高価だったが、とてもいい匂いがする。フランス製だった。イタリア人やフランス人は日焼けをするのがとても好きな国民と聞いているが、それでも日焼け止めを売っているのだなと思った。
そのまま海岸通を歩いた。遠目から見るととてもきれいな紺色の水で、浜は砂のためかエメラルド色に見える。海水浴場があり、たくさんの人たちが泳いだり、日光浴をしていた。よくもまあこんな強い日差しの中でこの日差しを浴びるものだ。Fさんによるととにかくイタリアの人たちは徹底的に焼くのだそうだ。焼くことが美しいことなのだという。確かにお母さんは褐色だが、こどもは真っ白だ。奥様方のシミもすごい。オレンジの皮と表現されるほどぼこぼこになっていても、平気なのだ。年輩の女性もみーんなビキニである。ものすごく体重がありそうな、ご婦人も平気でちっちゃなビキニを着て、陽を浴びている。よくも入る水着があるねと僕たちは感じた。それにしても皮膚ガンが怖くないのか、あなた方は。ポルトフィーノには船で行くことにした。船ではいるのが、一番良いらしい。帰りはどうするかということで、僕はガイドブックに海岸べりの道路をバスに乗ってみると断崖からの景色がすばらしいということが書いてあったので、それも良いなとFさんに提案したが、帰りのバスはなかなか都合が悪いらしくまた、タクシーは往復料金となり高くすごく飛ばすのであまりおすすめでないということで、帰りも船で帰ることにした。 時間が来るまで日陰でしばらく待った。とても風光明媚なところである。日陰に入るとは風がさわやかで気持ちよく、海がきれいで山もきれいで、ずーっと座っていたいという気分だった。コロンブスの銅像が立っていた。コロンブスはこの地の出身らしい。ジェノバに家が残っているが、建物の前面が残されているだけらしい。
時間が来て、船が桟橋に着いた。大きくはない。普通の観光船のような感じ。ほぼ満員の状況である。静かに出航。桟橋を離れるとすぐに水は紺碧になる。こんな碧い水は見たことがない。すばらしい美しさだ。この地中海の海を見たくてここにやってきたのだ。
海から見るサンタ・マルガリータ・リグレの街はとてもきれいだった。
15分ほどでポルトフィーノが見えてきた。
ほんの小さな入り江である。写真や絵で見なれたカラフルな壁が並んでいる。小さな家が並び隣同士の壁の色が違う。とてもおもしろく、かわいい。入り江にはたくさんのボートや大小のクルーザーが停泊、出入りし混雑している。何億円もするようなクルーザーが何隻もある。ボンドの映画に出てくるようなかっこいいクルーザーも停泊している。それらをすり抜けながら静かに入港して、桟橋に着いた。
左側には断崖があり、山の上にブラウン城が見える。笠松が1本存在感を見せている。正面は急傾斜になっていて、小さな家々が次第に谷を登って途中でとぎれている。右側には山の上に高級な別荘と思われる建物がパラパラとあり、有名な高級ホテルも見えた
岸に上がるとさわやかな風が吹いていた。レストランやショップが軒を連ねている。この地は少々というかかなり高級な感じである。しかし何でこんな小さな街にブランドショップがあるのかよくわからない。僕たちはすぐに左手の道を上り、ブラウン城に向かった。傾斜のある細い道を少しづつ登る。左手にポルトフィーノの街、船、入り江が見え隠れする。ブーゲンビリアの淡い紫色がきれい。坂道の両側には別荘と思われる瀟洒な建物が建っている。おそらくは大富豪のものなのだろう。中腹に教会があり、その右側に建物があった。Fさんによるとこれがジョルジョ・アルマーニの別荘なのだそうだ。イニシャルの「A」という表札が並んでいた。門の横に小さな展望所があり、下は断崖である。そこからリグリア海がどーんと望めた。ここも真っ青である。ここからの眺望はすばらしく島は見えない。下を覗くと紺碧の水が岩にぶつかり、真っ白い泡を吹き上げていた。
そこから少し登ると、ブラウン城の入り口があった。入場料を払い、中にはいると、お城というよりはギャラリーのようになっていた。絵の個展をしていて、作品はなかなかおもしろくピカソの絵画に似ていた。100〜200ユーロくらいの値段がついていた。そこからテラス状になっているところに出ると、銅のモニュメントが所々飾ってありなかなかよい雰囲気であった。大きな笠松があり、広場の先にポルトフィーノを見る展望台がレンガでアーチ状に作られていた。英語をしゃべる家族がその場所を占拠しており、しばらく待っていたが、しゃべっていて全く動こうとしないので、福田さんが「良いですか」と言って、場所を譲ってもらった。そこから見るポルトフィーノはすばらしかった。本当に小さな入り江である。昔は小さな漁村だったという。しかし、この美しい港は今や有数の高級リゾートに変身しているのだ。誰かが気に入って、多分仕掛け人がいるのだろうが、どんどん有名人が入ってきて別荘などを建てたようだ。
僕たちもしばらくそこで、景色を眺めていた。離れがたい雰囲気があるのだ。後ろ髪を引かれながらそこを離れ、小さな城の中の部屋を見て回った。内装は現代のもので、古い写真が飾ってあった。グレース・ケリー、ソフィア・ローレンそのほか忘れてしまったが大変有名な人たち、いわゆるたくさんの超セレブがここを訪れた証拠として残されていた。
いくつかの小さな窓があり外を眺めることができる。どこからもすばらしい眺望である。小さな半島の先の方には美しい別荘がそのテラスを海に突き出しており、イスが並べられていた。その先の海にはボートが浮かんでいて、泳いでいる人たちもいた。窓のひとつからアルマーニの別荘が見えた。断崖の上でしかもちょうど入り江と外海の間の谷になっているところに、建物があった。両方が楽しめるのだろう。さすがに本当に良い場所に作っているのだ。手前の別荘は花がたくさん咲いていて、芝生があり、趣があったが、福田さんによると前にお客さんが写真を撮っていて、しかられたそうだ。場内は撮影禁止だったが窓に向けて内緒で撮った。 そこから同じ道を降り、また海辺に出た。そのまま広場を通り抜け反対側のお店が並んでいる通りを歩いた。本当に小さな店が並んでいるのだが、ここのすごいところはすべて超高級ブランドばかりなのである。なぜこんな小さな観光地にこれだけのブランドがあり、こんな小さな店でやっていけるのか不思議だが、超のつくお金持ちが長期間滞在するので、需要があるのだろう。ほとんどのブランドがそろっているという。すぐに通りは山にぶつかり、別の小さな並行したとおりには、やはり小さなレストランやギャラリーが並んでいた。あまりギャラリーのものは絵や彫刻など色々あったが、僕の趣味ではなかった。 裏通りも花々が咲きみだれ、家々は古いものが多かったが、きれいでしゃれていた。 細い路地裏の一つを通ったとき、小さなレストランの厨房の裏で若い女の従業員がたばこを吸っていた。これはちょっといただけなかった。 お昼過ぎになり船着き場近くの海辺のレストランで昼食を取ることにした。細い通りを挟んですぐに海があり、子どもたちや通りがかりの人たちが海を見ていた。行ってみると小さな魚がたくさん群れていた。水はきれいである。まずは僕はジェノベーゼ、妻は海鮮のパスタ、Fさんはパスタをそれぞれ注文、ウエイターがワインはと聞くので、僕は気が大きくなり白ワインをお願いした。妻が「大丈夫なの?」と聞いたが「たぶん」と応えた。
昼間からワインを飲むなど僕にはほとんど経験がないのである。多分生まれて初めてだろう。もちろん、大丈夫かどうかは神のみぞ知るだ。 まあ何とかなるだろうと、ちびちび飲んだ。ジェノベーゼ・ペーストをからめたパスタはこの地方の独特のものらしい。ショートのパスタをねじってある。粘りがあり、なかなか美味しい。それにバジリコの風味が好きである。
風が心地よい。すぐ左側は細い道を挟んで海。碧い海と山、カラフルな建物を見ながらの食事はワインの酔いも加わって気持ちのよいものだった。僕たちと向かいの席に座っていた家族は30代と思われる夫婦と子どもが二人。3,4歳と思われる、女の子と2歳くらいの男の子。お母さんは胸を大きく開けたワンピースを着ていたが、全身、褐色の肌にいっぱいのシミができていた。これでいいんだこの人は、と感慨。子どもたちはしきりにテーブルの下で小さな木の車のおもちゃで遊んでいた。この子たちは真っ白でとても可愛かった。 食事が終わり、僕も気持ちよくワインを飲み、レシートが来た。それをFさんはチェック。コペルトというテーブルチャージ、パスタ、ワイン、サービス料も含まれていて40ユーロくらいだった。これならチップはいいですよと彼女が言い、支払った。高いけれど意外に安かった気がする。 まだ帰りの船の時間があったので、反対側の海辺を歩いた。こちらにもショップやレストランがある。小さな建物が建て込んでいる独特の風景でここが一番絵になるところである。波打ち際で魚がはねていた。
建物が並んでいる橋まではフェンスがあり、行けなかったが、布地の軒の下にきれいな花が飾ってあり、とても雰囲気があった。そこからまた港に戻ると八百屋さんのような店もあった。その先に教会があったが、船に乗る時間が来たので、ポルトフィーノを後にした。海の色は相変わらず紺碧である。美しい海岸線を見ながら、サンタ・マルガリータ・リグレまで帰ってきた。海岸線をゆっくり歩き、駅に向かった。小さな着替えようの小屋が並んでいた。歩道の間には柵があり、小さな子どもが浮き袋を手にこちらを見ていた。子どもはとても可愛い。 そこから坂を少し登り、駅に着いた。壁がピンクの小さな駅である。切符売り場には女性の駅員が1人だけ。「トゥレ・ビリエッティ・ペル・ジェノバ」と言って、ジェノバまでの切符を3枚買った。もう電車が来るので、プラットフォームに出た。10人前後のお客。 イスに座った。このとき熟年のご婦人が端によって席を空けてくれた。向こう側は山手で、いわゆるアパートのような建物が並んでいた。色はピンクやオレンジ。窓枠やシャッターにあたる部分が木製でグリーンである。このあたりがやはり全然日本とは違う。 ご婦人が声を掛けてきた。僕たちは日本から来たと言った。日本には一度行ってみたいと。ここはすばらしいとか、建物がきれいだとか褒めた。彼女はミラノ出身で、今は隣の町に住んでいるらしい。もうかなり待たされたので、歩いた方が早かったかなと言った。 しばらく待っていたが、電車が来ない。15分ほどして放送があり、遅れているという。Fさんは「すみませんとか申し訳ありませんとか全然言わないんですよ。これからまた遅れるんです。」と言った。
そうして、30分くらい待った後、ようやく列車が来た。隣にいた女性もああやっと来たという感じで、一緒に乗り込んだ。日差しが強かったが、窓からの風が気持ちよく、僕は光る海を眺めていた。トンネルが多く、その間に顔を出す海はとてもきれいで、眼下の多くは断崖で所々に海のしぶきが見える。ときおり浜が見え、どんなに小さな浜にも水辺で遊んだり、焼いたりする人たちが見えた。激しく波しぶきが見えるようなほんの小さな水際にも人がいて、非常に危険な感じがした。おぼれる事故がないのか心配だった。よほどにみなさん泳ぎがうまいのだろう。日本なら真夏、連日溺死者が報道されるのに。こちらではあまりないようだ。あまり報道されないのかもしれない。それらも自己責任なのだろう。
1時間ほどでジェノバに着いた。近いのだが、各駅停車なので時間がかかるのだ。かなり遅れている。僕が出口の所にいたので、ドアを開けることにした。この列車はボタンを押すタイプだ。停まったと思ってボタンを押したが、開かず、えっと思ったら、まだ完全に停車していなかったのだ。後ろの女性が教えてくれ、開けることができた。 駅を降り、そのまままっすぐ駅前を下っていった。もう腰が少し痛くなってきていた。
王宮が建ち並んでいるガリバルディ通りというもっとも最近、世界遺産になったところを目指す。さすがにジェノバは往時をしのばせる都会のようだった。猥雑さもあり、車も多めである。じわっと下りの道をゆっくりと降り、ガリバルディ通りへ。両側に石造りの建物がずーっと続いている。美しいというかすごい。これだけのものが今にきちんと残されていることがすばらしい。
ここの貴族達はこれほどに裕福だったのだ。赤いロッソ宮、現在は市庁舎として使われているトゥルシ宮などとてもすばらしい建物が続く。建物内には入らず、途中の小さい路地に入ってみた。ほとんどはお休みしているが、飾り気のない市民の生活の場を通った。その中にもところどころ小粋な店があり、皮製品を扱っているお店に入ってみた。なめしもきれいで、いくつかおみやげに良さそうなものがあったが、数がない。注文してくれたら作るという。時間がかかるのだ。それに店主が明日から長いバカンスにはいるという。 その通りを出ると人通りが急に増え、広場に出てすぐ左手にサン・ロレンツォ大聖堂の正面に出た。これは黒と白のしましまの感じ大理石のファサードでイスラムの影響を受けているという。
そこから左手に行くと、フェラーリ広場に出るのだが、少々足腰が二人ともばててきたので、もう港に向かうことにした。ロレンツォ通りを海の方向に歩いた。海が見え、白い斜めの柱が美しい近代的なレンゾ・ピアノ設計のモニュメントが見えた。とてもモダンである。レンゾ・ピアノは関西国際空港を設計した人らしい。手前の広場のバールで休むことにした。バールでオレンジジュースと水などを飲み、例によってトイレを拝借。トイレは順番待ちで従業員さんも並んでいた。どうしてもジェラートが食べたくなり、そこからすぐ横にあったジュラートの店でイタリアに来て初めてジェラートを食べた。2ユーロで3種類のものを混ぜてくれた。港まで歩きながら食べた。美味しかった。へばっていたので、これは正解。港に水族館があった。ヨーロッパで最も大きいものということだったが、Fさんによるとたいしたことはないらしい。ヨーロッパには水族館があまりなく、日本のものほど立派ではないという。ということで入らず、古い木製のバイキング船のような多分観光船なのだろう、のそばで写真だけ撮って、タクシーに乗ってプリンチペ駅まで帰った。
そこからミラノに向かった。電車の席ははコンパートメントの6人掛けだった。僕たちの向かいの席には若いがっしりとした女性が1人と、僕の前には相当ふくよかな、多分僕よりは少し年が上くらいの女性が座っていた。かなり派手な服装ときらきらの大きなイヤリング、腕にも、そしてかなり濃いサングラス、元は白人なのだろうけど褐色の肌に失礼ながらたくさんのシミ。ずーっと本を読んでいた。日は傾き、夕暮れの田園風景はきれいだった。もうかなり遅い時間ではあるが、まだ明るいのだ。一緒に行った二人も夢の中。
僕は夕暮れのオレンジ色の景色が流れていくのを眺めていた。次の停車する駅でふくよかなご婦人が降りる用意をし始めた。隣の若い女性に頭の上にある荷物置きを指さして降ろしてくれといったようだった。若い女性は「シー」といい、二つの大きなスーツケースを降ろした。かなり重そうだったが、彼女はとても大柄で僕よりもはるかに力がありそうだったので、僕はそれを見ていた。ふくよかなご婦人は立ち上がったが、膝か足が悪そうで、腰をかがめてしんどそうに歩いていた。そのトランク以外にも少し小さいスーツケースを持っていたので、いったいどうなるんだろう、手伝った方がいいのかと悩んだが、若い女性がその二つのスーツケースを手伝って通路まで出した。ご婦人はグラーツェといってしっかりと彼女と握手をした。キャリーが付いているのでそこからは一つづつ運んだようだった。そこからどうなるのか心配したが、次の駅に止まると、ホームにご主人らしき人が迎えに来ていて、ほっぺにキスをしていた。僕は何となくほっとした。荷物は先に駅員がホームに降ろしていた。Fさんが誰かが手を貸してくれるのでしょう、と言った。誰かが手をさしのべてくれることを前提に動いているのだろうなと思った。 パヴィアという駅に着いた。ガイドブックで来てみようかなと思っていた所だったが、駅舎以外はよく見えなかった。それから25分くらいでミラノに着いた。着く直前にその若い女性がFさんにどこか良いホテルはないかと尋ねていた。彼女はオーストラリアのアデレードから旅行できていて、友達と来ていたが、友達はフィレンツェに行ったので別れてミラノに来たという。Fさんは何とかという駅の近くの4つ星ホテルを紹介していた。
僕はアデレードはとてもきれいな街なんでしょうというと嬉しそうに、イエス、と応えた。街全体が公園の様な所だという。彼女はイタリア語も上手なようだった。頼もしい。 中央駅にスーパーがあったので、1個1.5ユーロの水を2本買い、西側の出口に出て、タクシー乗り場を通り過ぎ、トラムに乗ることになった。トラムの切符はFさんが買ってくれたのだが、どこで買ったのか聞くのを忘れた。駅前からトラムが出ていたが、時間が比較的遅いため、間隔が長くなっていた。しかし、しばらくするとトラムが来て、乗り込んだ。乗客はいなかった。Fさんがトラムの乗り方を教えてくれた。しかし、掲示板がわかりにくいし、どこに行くのかもう一つよく分からなかったので、乗りこなせるかどうか分からなかった。バスもトラムも地下鉄も共通券らしい。これを乗りこなせると、かなり楽にはなる気がした。モンテナポリオーネで降り、ホテルまで帰ってきた。ホテルのロビーでFさんにお礼を言い別れた。Fさんの仕事仲間がいたらしく、話をしていた。すでに8時半頃になっていたので、僕たちはホテルのレストランで食事をすることにした。 といっても地下のイタリアでも最高級といわれるイル・テアトロに入る自信はなく、いつも朝食をとっているラ・ベランダで食べることにした。 僕はフィットゥチーネのパスタに野菜のミックスサラダ、妻はキノコのクリームパスタを頼み、僕はさらにまた、カメリエーレ君のお薦めで白ワインを注文した。今日は2回目だ。昼のワインは何ともなかったので、調子に乗っている。
とても美味しかった。ワインも少々から口でさらっとしていて飲みやすかった。とても良い気持ちで部屋に帰ろうとしたら、一つ開けた先のテーブルで食事をしていたカップルが先に僕たちの前にサインしていた。その時Fさんのお仲間が同じようにガイドをして、注文など面倒を見ていたようだった。僕たちの前を歩くその二人は男性は僕よりは少なく見積もっても10才以上上、小柄のおじいさんという感じ、女性の方は20代後半、しだれかかるように腕を組んで部屋の方へ歩いていった。女性は食事中も嬌声を上げ、下品。どう見ても、パパと飲み屋のねーちゃんという感じ。まあどうでもいいけど、日本人として恥ずかしい。
帰ってすぐのトイレの水はまた流れたり流れなかったりで、また、フロントに言い、係の人が来たが今日はもうしんどいので、明日出て行ってから点検をしてくれとお願いした。フロントの人以外は英語が通じにくい。テレビをつけるとイタリアでも日本の芸人と同じような人たちがいて、漫才のようなことをしていた。風呂に入り冷蔵庫のビールと水を飲んだ。妻はまた洗濯をした。 4日目
今朝の出発は9時の電車である。連日、8時台の電車ではしんどいし、今日の予定のコモ湖は近いので私鉄で行くことのようだ。僕は中央駅から行くのだと思っていたら、カルドナ駅という昨日、地下鉄駅の上にあるところから出るのだという。ここからは1時間かかるのだが、町の中心に着くらしい。さて、7時半に起きいつもと同じ朝食を取り、8時半にロビーに出るとFさんが迎えに来ていた。ウエイーターは毎日変わるので、おなじみさんになりにくいがそれなりに覚えてくれているような感じ。しかし、日本ならすぐに覚えてくれるところだが、そういう雰囲気はない。 今日は地下鉄で出かけた。まず、モンテ・ナポリオーネ駅に出て、そこからドゥオモに行き、そこから1番線でカドルナまで行った。きちんと環状となる地下鉄の駅名を全部覚えたので、よく分かる。地上に出て、カルドナ駅からコモへ。一等の席はそれほどきれいともいえなかったがまあこんなものだろう。電車の席を取るときには1等を取るべきと本に書いてあった。福田さんはそのように取ってくれていた。楽しみにしていたコモ湖へさあ出発。お天気は晴れ。空がきれい。すぐに田園風景にはいる。ポプラがたくさん植えられている。よく見ていると、日本の畦にあたるところにポプラを並木にして植えているのだ。間は細く土のままで小さな作業車がやっと入れるくらいである。所々にポプラの小さな苗木が植林されていて、育てて、植え替えていくのだろう。 ほとんどの田園の部分はトウモロコシと小麦であるが、Fさんによると米もたくさん作っているという。日本に比べると自給率は高いということだった。確かにイタリアは日本の国土の4分の3くらいで人口は約半分以下だ。大きな都市と言われるローマで256万人、ミラノで120万人ほど。空から見ても丘のようなところが多く、ほとんどは緑の農地のようだ。車窓からの景色も広い農場、木々の緑と時折現れるオレンジの町並みが本当に美しい。目に入る道路も車はかなりのスピードで走っているが、日本のように看板が無く、ガソリンスタンドも見えない。日本のようなトタンやブロック、屋根瓦のグレーの色調が無く、明るい。
しばらく走ったところで、左手のトウモロコシ畑の向こうに高い山が見えてきた。雪の白い線が縁取りしている。やったあ。線路際の木で見え隠れして写真を撮ろうとしてもうまくいかない。「モンテ・ローザです」とFさん。モンテ・ローザといわれてもぴんと来ない。モンテは山、ローザはピンク。ピンクの山だ。ちなみにモンブランは白い山だ。 夕焼けに赤く染まるのでその名が付いているらしい。4634メートル。あのマッターホルン(4478m)よりも高い。その遙か先にモンブラン(4807m)があり、このあたりからは一直線になっているようだ。コモからアルプスを見たいと思っていたが、もう実現してしまった。そうしているうちにコモの町に着いた。手前までうら寂しい感じがした。私鉄の駅は町の中央に着く。コモ・ノルド・ラーゴ駅だ。電車は着いたのか着いていないのか分からない感じで停まった。どうも着いたようですとFさん。 終着駅なのであわてず、降りた。何となく田舎っぽい第一印象だったが、すぐにそれは打ち消された。駅舎を出るとさすがに観光地らしく人と、車が一挙に増え、コモ湖のグリーンの湖面と周囲のオレンジの町が見えた。ああこれがコモ湖かと感慨にふけるまもなく、Fさんがそれじゃ、ケーブルカー(フニクラーレ)に乗りましょう、と。すたすたと歩き始めた。この人は本当に元気そうだし、体力がある。体力には自信がありますと行っていた。二人何とか遅れないように着いていく。湖岸を歩くと水が打ち付けている。ここで水が予想よりもきれいでなくちょっとがっかりした。ポルトフィーノとは違ってたくさんの小船がうようよといた。歩くこと数分でフニクラーレの駅に。ここから急傾斜のブルナーテ山の頂上近くまであがれるのだ。 僕がトゥレ・ビリエッティ、アンダータ・エ・レトルノと言って3枚の往復切符を買った。
Fさんが時刻表を見て、あと15分ほどですね、というのでその間にトイレに行く。朝しこたま水分を取っているのでと、言い訳しながら。日本人いや僕たちはトイレが近いのだ。見ているとすぐにフニクラーレは出発している。どうも人が多くなったら出発するらしい。えーっといいながら乗り場に。時刻表は何の役にも立たないのか。一番下に。 傾斜が随分きつい。55度あるらしい。比叡山ののと良い勝負だ。ぐんぐん上がっていき、コモの町と中心のドゥオモがきれいに見える。湖面は右側で見にくい。しかも後ろの方角に湖は回り込んでいるので、フニクラーレでは見にくいのだ。 あっという間に終点。降りて、またトイレに行きたくなり、トイレの表示が見えたので、行ってみるとカギがかかっていて、終点駅のすぐ横にある土産物屋にカギが置いてあると書いていた。そこで土産物屋までもどって絵はがきを買い、カギを借りて、トイレを使用。使用中に誰か別の人がそーっと入ってきて、婦人用の方に入ったが、カギをどうすれば良いんだ。仕方なくカギをかけずに帰って、そのお店の可愛い店員さんに福田さんが説明してくれた。ああいいですよっていう感じ。あまり細かいことは言わないのだ。 そこから湖に沿って細い車道を歩いた。別荘や住んでいる人もいるので車があがれるのだ。 静かな道をしばらく歩いた。山の中の平坦な道である。両側に別荘と思われる家が並んでいる。アプローチの素敵なところがあったし、召使いのような女性がいすに腰掛けて休んでいた。人通りはほとんどない。左側にはコモ湖が見える。日が当たらず風も気持ちが良い。さほど暑くはない。空は青い。ここまでくる日本人はあまりいないらしい。20分ほど歩いて、山頂近くの展望台に着いた。
ここからはコモ湖の4分の一ほどが見える。かなり下の方だが、真下方向にヴィッラ・デステという有名なホテルが見える。庭がとてもきれいだという。湖のすぐ向こうに鉄道の駅があり、そこはもうスイスだという。その向こうにルガーノ湖が見えるはずだが、見えない。写真で見たルガーノ湖の向かいにある山が見える。その左奥にモンテ・ローザがある。
よく見えていて、感激だった。ヨーロッパアルプスである。ここへ来たのもヨーロッパアルプスが見たいこともあった。だから、より西のマッジョーレ湖やさらに北西のダオスタ渓谷に行ってみたかったのだ。しかし、ミラノからはかなり遠いのではじめからトリノのあたりに行かないと難しかったので、あきらめた。それでも僕は4000メートルを超えるような山は見たことがなかったのだ。
しばらくそこでスイスを見て、また来たいねと行って、そこから同じ道を歩いて帰り、ケーブルカーに乗って帰った。相変わらず時間はないようだ。同じ世代の日本人の夫婦がいて、ご主人がしきりに写真を撮っていた。ぼくも窓の開いているところからコモの町とドゥオモを撮った。降りて船のチケット売り場に向かった。人が並んでいたが、Fさんがラッキーにも横からチケットが買え、観光船に乗り込んだ。すでにいっぱいの人で2階の屋根のない船尾に座ることができた。日差しはとても強く、暑かったが、景色を見ようとして我慢した。すぐに船は岸を離れ、ゆっくりと進んだ。すぐにチェルノッビオという港に着きたくさんの人が降りた。このすぐ左手に先ほど見えたヴィッラ・デステという16世紀のコモの枢機卿が建てた邸宅を改装した最高級ホテルがある。庭園が有名で見学はできるのだが、そこのレストランで何か食べなければならないので、僕たちはここには立ち寄らないことにした。またすぐに出発、両岸には水際に別荘と思われる大きな邸宅が一定の距離を置いて並んでいた。ほとんどは有名な実業家や俳優などの別荘だという。かつてナポレオンの持ち物だったところ、ソフイア・ローレンの所有だったところをFさんが教えてくれた。食器で有名なリチャード・ジノリの別荘はエレベータ付きだった。一番深いところは約400メートルあり、その場所を何の感慨もなく通り過ぎ、左手に少し曲がったところにジョージ・クルーニーの別荘があるということだった。小さな浜を挟んで2つの別荘を購入したらしい。そうしたら、浜がプライベートビーチになり、一般の人が入れなくなり反対運動が起こったそうな。それで、クルーニーはいつでも使って良いよと言ったらしい。ちょくちょく来て有名人などとパーティをしているらしい。妻は全く興味がなかったようだ。何回説明をしてもよく分からないらしい。そのたびに僕はあの「ER」の小児科医だよというのだが、その時は「ああ」というのだが、頭に記銘しないようだ。好みではないということだろう。イタリアではクルーニーはとても人気があるという。容貌もラテン系だ。ギリシャ人のよう。水際の邸宅は大きめのボートを持ち、入り口には車庫よろしく、多分ステンレスだろうが、格子状のシャッターが着いている。2艘入るところもある。ただ、ここではボートは車より必需品かもしれない。空は青くきれいで、両岸にはオレンジ屋根の小振りな街が次々に現れては過ぎていく。小さな集落がたくさんあるのだ。それがまたとても美しい。ただ水はあまりきれいでなかったのが、少々残念である。
40分ほど乗っただろうか、Fさんが次で降りますよと言った。アルジェーニョという小さな村である。降りると、すぐにFさんは良いレストランがあるか乗組員に聞いた。Fさんもここは初めてだった。そうしたら、港の人に聞けと言われたらしい。彼はここで降りたことがないらしい。そこで福田さんは港の人に聞いたところ、すぐ前のレストランを教えてもらった。ちょうどお昼時だったので、そのままそこに入った。小さな店だったが、二人ずれの旅行者とおじいさんがごにょごにょ何かしゃべっていた。テーブルに座り、僕はまだピサを食べていなかったので、マルガリータを美智子はクリームのパスタ、それに前菜の盛り合わせ、これは自由にとって良いもの、コモ湖で獲れた魚のムニエルのようなもの福田さんがラザニアとたくさん注文した。マルガリータはとても美味しかった。
みんな分け合って食べた。とても美味しかった。例によってトイレを借り、街を散策した。お店もありここのような観光地でも休んでいるところが多かった。後ろが山なのですぐに坂道になり、細い道に入った。壁のカラフルな色合い、しゃれた手すり、花など小さくても気の利いた素敵な街だった。コモ湖の沿岸にはずーっとこのような集落があり、みなそれぞれこのような感じなのだろう。
小さな通りを抜けると、小さな川があり石の橋が架かっていた。とてもきれいな水で周りはあまり草が無く、小さなしろい石ころばかりだった。ほんの小さな石作りの階段をおり、水辺にでた。水がとてもきれいで、そこも石が白く透明感がすばらしかった。それを下っていくと、そのまま200メートルほどで湖岸に出る。すぐ先に車道が架かっている橋があり、そこに上がって、湖の方に出た。河口で十数人の人たちが水浴びをしていた。みんな楽しそうだった。子どもたちは小さな突き出た木製の突堤から飛び込み、浅瀬でかなり体重があると思われるご婦人がちっちゃな水着で波打ち際に寝そべっていた。 すぐ横にヘリポートがあり、何かあったらヘリが飛んでくるのかなと思った。ちょっと不似合いな光景だった。そのすぐ山側に教会があり、中に入ってみた。少し新しい教会のようだったが、モダンな雰囲気がなかなか良い感じだった。教会も新しく造る場合でも内装などかなりデザインを重視するのだなと感心した。 そこから船着き場まで湖岸を歩いた。本当に少しの距離だったが、とても良い街だった。
ここからは高速艇でコモまで帰った。船着き場で30代前半と思われるカップルが僕たちの真ん前でもうこれ以上くっつけないというところまでくっついていた。妻はいたく気になったようだった。僕はそこから北方向に見える景色がとても気に入った。正面は北に向かう湖が目の前にあり、その先には2500メートル級の山々がくっきりと淡く白い雲たちを従え、すばらしい景色を見せてくれた。
ここからコモ湖は遙かに細長い形をしているので、ベッラージオあたりまでは行きたかったのだが、時間が無く残念ながらコモに帰り、街を観光することに。船を下り手そのまままっすぐに進むと、広場に入り右手に絹の専門店が開いていた。ここは休んでいない。 コモは絹で有名なところであり、絹のショップもたくさんあると聞いていたが、どうも開いているのはそこくらいである。そこでいくつかおみやげを買った。有名なブランドのものもここで作って、ブランドロゴをつけるような感じであった。僕はおみやげにスカーフや絹と皮で作った財布などを買った。
そこから街の方に向かった。左手にドゥオモが見えてきた。立派な作りである。優れた石工や彫刻家を輩出した土地柄というだけあって、見事なファサードが見える。中も本当にきれいである。コモは勢力があったということがこれでよく分かる。通りの間から山とドゥオモとクーポラがちょうど見える所があり、とても絵になる場所があったのだが、左側の建物を工事していたので残念ながら、良い写真とはならなかった。街を散策した。ブランドの店もかなり見かけたが、ほとんどの商店は閉まっていた。 しばらく歩いて時間となったので、4時台の電車に乗ろうとしたら、運休で5時台の電車になった。このようなことはしょっちゅうあるのだろう。しばらく湖畔で時間をつぶした。隣で乳母車の3ヶ月くらいのあかちゃんを3人の女性が代わり代わりあやしていた。色がとても白く目がくりくりの可愛い女の子のようだった。女性たちは東欧系の感じであったが、2人がよく似ていてお母さんとおばあちゃんのようで、とてもかわいかったのだろう、あやし方が普通ではなかった気がする。しかし、これが普通なのかもしれない。
時間が来たので駅に帰り、電車に乗った。帰りはノルド駅まで帰り、そこでFさんにお礼を言い、別れた。本当にお世話になった。そのまま僕たちはドゥオモまで帰り、ドゥオモの東の方角へ歩いた。教えてもらっていたレストランの地図がバッグに入っていなかったので、だいたいの検討をつけて探したが、裏手にはいると結構休んでいるところが多く、商店街を見ながらうろうろと歩いた。人はたくさん歩いていた。このあたりがミラノの中央にあたるところなのだろう。今日もまたよく歩き、しんどくなったのでどこか適当なところで食べたかったがなかなか見つからなかった。しばらくその大きな通りをあてどもなく歩いていたら左側に広場と立派な教会があり、その広場の向かって左側の建物ににレストランがあり、そこでパスタ、野菜のアンティ・パスタを食べた。ここはそれほど高くなかった。後でそれがサン・バビラ教会だったことが帰国してから分かった。そこからホテルへ帰るためにいったんドゥオモに帰りそこから、ガレリアをくぐり抜け、スカラ広場を抜け、銀行が建ち並んでいる通りを通り、モンテナポリオーネまで帰ったのだった。つまり、サン・バビラ教会から実はホテルまで5分くらいだったのに方向を間違えて、大回りをして帰った。またまた、すごいマクラーレンと美しいランボルギーニが駐まっていた。ホテルの冷蔵庫にあるビールと水を飲んだ。美智子は持って行った洗剤で下着を洗って豪華なバスルームに干した。部屋を開けておくとうまく乾いてしまうようだ。 また明日朝が早いので早めに就寝。
5日目
6時頃には目覚めた。どうも早めに目が覚めてそれから眠れなくなる。まあいいか。どこも痛くないし。ベッドでどうしようか考えていたら、妻も目が覚めたらしい。用意をして、7時半頃部屋を出た。今日もよい天気だった。ミラノに来てずーっと良い天気である。空が青く、筋雲が少し出ている。真ん中にある大きな木が存在感を示す。そのすぐそばに中庭で二人の写真を従業員の人にとってもらった。 ラ・ベランダに行こうとしたら、地階のメインのレストランに行けという。ガイドブックによるとミラノではかなり高級なレストランらしい。さすがに落ち着いたシックな雰囲気である。華美ではない。ここでの夕食はとんでもない気がするが朝食はいつもと同じコンチネンタルで良い。今日はプレーンヨーグルトをフルーツヨーグルトにした。とても美味しかった。僕たちともう一家族、日本人の3人が朝食をとっていた。 用意をして、地下鉄で中央駅へ。それほど暑くもなくちょうど良い。地下鉄も空いている。
今日はいよいよベネチア行きだ。8時30分頃に着き、まずボードを確かめる。それから掲示してある時刻表を確かめる。掲示板に貼ってあるものとボードのものはプラットホームが違っていた。やっぱり。9番乗り場でES(ユーロスター)が待っていた。車掌さんがいたので、この電車はベニス行きかとイタリア語で訪ねる。「シー」(そう)と彼は答えた。 そして切符を見せると「ドゥエ」というので2号車まで行った。シート番号は103と105だった。座席を探したが、2号車にはない。どう見ても96番までしかない。聞き間違えかと思い、先頭に戻ってもう一度彼に聞いた。2か3号車のように聞こえたので、もう一度2号車、3号車と探したがその番号は無かった。そこで4,5号車と行ってみたが、ない。 うろうろしていたら僕たちと同年代のご婦人が、切符を見て多分これは1号車の3と4番ではないかと教えてくれたので、また1号車に行ったが、最初の番号が15番だった。おかしいと思い、再び外に出てその車掌に聞いたら、もうどこでもいいと逆ギレされた。僕たちの感覚ではとても信じられないが、ありもしない座席番号があり、その上どこでもいいのだそうだ。つまり早い者勝ちで、満員になったら遅い人が悪いということか。それだけのお金をはらっているはずなのに、こんな場合でも車掌は責任を当然取らないのだろう。 よく混乱が起きないものだ。多分起きないから直さないのだろう。 僕たちの中ではひと騒動あったが、とりあえず空いている席に座れた。それほど混んでいなかった。ESは何の放送もなく出発。出発前には絶対外に出ないようにと福田さんに教えてもらっていたので、よく分かった。最初のうち、市街地をゆっくり走った。町並みがきれいである。新しい建物も多く見られるが、色彩豊かである。しばらくすると郊外に出て、スピードがかなり出てきた。ESは200キロ以上出るらしい。乗り心地はまあまあだ。イスはすべて向かい合わせで、4人掛け。リクライニングはない。郊外の田園風景がすばらしい。ときおりある田舎の建物も雰囲気があっていい。 一つめの駅はブレッシャ。ロンバルディア地方のミラノに次ぐ第2の都市らしい。駅舎はごく普通の田舎の駅という感じ。乗り降りする人もあまりいない。静かである。しばらくして音もなく出発。
この先に僕が行ってみたかったガルダ湖があるのだが、一瞬湖面が見えた。湖水地方では一番大きい湖である。周囲の山と解け合って美しそうな風景だった。名残惜しく見送ると、次の駅、ヴェローナについた。この駅でも乗り降りする人はそれほどいなかった。なんといっても、シェイクス・ピアの「ロミオとジュリエット」の舞台として有名なジュリエッタの家がある所だが、他にも見所のたくさんある街である。電車から見える町並みも素敵だ。残念ながらここも素通り。もうくることができるかどうかは分からない。 それからどんどんに東に向かい、次の駅はパドヴァ。ヴェネト地方の中心都市として栄え、ガリレオ・ガリレイが教鞭をとったというイタリアで2番目に古いパドヴァ大学が有名だという。ここでは乗り降りする人が多く、駅も大きかった。 ベネチアはもうすぐである。本土側のメストナ駅に停まった。ここではかなりの人たちが降りた。ここからゆっくりと電車は海上の線路を走る。両側に緑色の海。潟の色なのだろう。すぐに左手にオレンジの屋根、右手は橋がありその上を車が走っている。着いたらすぐに駐車場があるのだろう。新しく見える建物や大きな船が見える。港があるようだ。空港はメストレのどこかにあるようだが、右手の方に飛行機が降りていった。 すぐにベネチア本島の駅、サンタルチアに着いた。想像していたより大きな駅で、たくさんの人が降りた。人の流れにしたがって、駅舎を出ると、そこはまさしくべネチアだった。すぐ前にグラン・カナルの淡いグリーンの水と写真などでよく見る建物群が目に飛び込んできた。グラン・カナルは中くらいの土手のない川という感じである。ヴァポレットという水上バスとモーターボート、ゴンドラが行き交い、とてもにぎやかである。
空が青くとても良い天気だったが、日差しが非常に強い。早速、左手にあるヴァポレットの乗車券を買いに足を進めたが、非常に混み合っていた。表示はとてもわかりにくく、とりあえず、リアルト橋まで行くことにして、乗船券を買った。二人で13ユーロ、結構高い。1番が各駅停車で2番が快速線である。ガイドブックには今までは82番と記載されていた。しかし、昨日、ごく最近2番線になったということを福田さんから聞いていていたので売り場で確かめた。快速の方で行くことにした。快速で行くと3番目の乗り場で降りることになる。しばらくすると満員のヴァポレットが来て、たくさんの人がおり、混雑の中美智子とはぐれないように乗り込んだ。僕たちの後がカットされ、乗り込みが一番後になったので、船縁で運河や運河沿いの建物を見ることができた。1階が水がしょっちゅう出入りするようすで、腐りかけていたり、ガラスもないところもあった。そのため1階だけ使用していない状況の建物もあった。だったので、「デボ・シェンデレ・クイ」(ここで降ります)というのを暗示のように繰り返していてリアルト橋が見えたときに写真を撮るのを忘れてしまった。橋に着いたとたん、多くの人たちがここで降り、そのまま先頭にいた僕たちはそのことばを使うこともなく押されるように降りた。リアルト橋は不思議な形をしていた。時間が12時頃になっていたので、降りたすぐそばの店で多分クロスティーノというものなのだろう、ピザを巻いているような食べ物を見つけ、それを買った。これは結構美味しかった。やはり一つ10ユーロくらいだったと思う。立ち食いをしながら、リアルト橋に登り、大運河の景色を楽しんだ。この景色は色々写真や絵で見ていたので、感動が少なかった気がする。リアルト橋の中央部は店が並んでいて、両側が渡れるようになっている。店にはたくさんのガラスの製品が並んでいた。英語の教室の先生方におみやげを買おうと思ったが、指輪、ネックレスなどが本当にたくさん種類があり、とても迷った。橋から降り、ヴェネチア独特の細い道に入った。サンマルコ広場への方向をだいたい見当をつけて、そちらの方角に向けて歩いた。同じような細いとおりがたくさんあり同じようなガラスの店がたくさんあった。手頃なおみやげ物とか高級な感じの店とか様々である。とにかく人がたくさん歩いている。きれいなものがありそうな店に入ってはぐるっと回って通りに出、小運河を渡り、また方向を考えて歩くということを繰り返した。 ある広めの店に飾ってあったろうそく立てがとてもきれいだったので、そこに入った。小振りのセンスの良いものと、同じデザインで少し大きめのものがあったので、それを英会話の先生方3人におみやげとして買った。なんとか便で2〜3日で日本に送ることができるということで計37ユーロだったが、持って帰るのなら30ユーロに負けるという。そこで美智子が即座に「それで」ということになった。僕は持って帰るのは荷物が重くなるのでいやだったのだが、7ユーロも安くなるということであきらめた。ちなみに免税店ではなかった。そこで店員さんにサンマルコ広場にはどう行けばいいんですかと聞いたら、店を出て左に曲がったらすぐですと教えてくれた。店の隣が小運河で橋を渡るともう広場が見えていた。 ものすごい人である。ここには日本人も中国人も韓国人もたくさん来ているよう。
広場を人波をかき分けながら進み、ちょうど大運河の入り口にあたるところのライオンの像が建っている柱の所まで行った。ちょうど1時半になっていた。着いたらすぐ、女性が声を掛けてきた。「せーのさん?」と。そうですと僕たち。アントニオという男性が来ると昨日、福田さんが調べてくれていたのだが、右の鼻にピアスを開けた30歳くらいの女性だった。金色のうぶ毛が印象的だったが、なんと行っても日本語がものすごくうまい。ぺらぺらだ。日本の大学に行っていたらしい。早速行きましょうと、右側のドゥカーレ宮殿へ。入り口でたくさんの人たちが並んでいたのだが、別の入り口からすーっと入った。これは高いガイド料を払っている特典かと思い、少々嬉しかった。ドゥカーレ宮殿は元々政務などを執り行う事務所だったという。王様はいなくて、宮殿のトップは選挙で選ばれた人でしかも大金を投じて色々な寄付をして色々な事業に貢献をしてなるのだそうだ。選挙で裏金を使うのとは違うのだ。それにしてもものすごく立派である。
すぐ横の建物が小さな運河を挟んで牢獄だった。その間に架かる小さな橋が溜息橋といわれていて、その牢獄はほとんどが政治犯だったのだが、ほとんど入ったら出られないので、この橋を通るときに溜息をついて渡るということでこの名が付いているらしい。これで有名ならしくゴンドラは必ずこの下を通るという。今は工事をしていて中しか見ることができなかった。牢獄は4畳ほどの空間で石の壁と小さな食事用の穴、それにおどろおどろしい、鉄格子があるだけだった。冬は凍えただろう。排泄は樽のようなものを使ったらしい。そのひとつの部屋にベッドが3つ入れられたそうな。2階に上がり色々な中世のもの、剣や鎧、弓などを見た。鎧は鉄製で全身をくまなく覆うものだが、薄くはできているものの大変重く、これでは馬から落とされたり、転んだりしたら頸や目をねらわれたら多分全然戦闘には使えないだろうと思った。飾りようのもののようだった。
驚いたのは貞操帯である。本物という話だったが、女性に装着して後ろにある鍵をかけ、その鍵を主人が持って十字軍として戦争に出かけたもの。写真などで見たことはあるがもちろん本物は初めて。ガイド女性によると、これをつけられた女性は動くこともままならず、すぐに皮膚に傷がつき、そこから細菌が入り込み炎症を起こしてほとんどの人は亡くなっていたらしい。主人はなかなか帰らず、死んだり鍵がなくなっていたりする場合が多かったという。中世というのは本当にことばに尽くせないほど激しく悲惨な時代だったのだ。
その後、サン・マルコ寺院の見学をした。贅を尽くした作りで、金張りとカメオのような彫刻を浮き出させた階段の天井を見ながら、寺院に入った。内部は床も壁もモザイクで張り巡らされている。光が色々な方向に反射し、きらきら輝いて見える。
このように豪奢な建物を見るといつも感じる複雑な感慨を胸に外に出て、右側にある時計塔を見た。500年前に作られて、未だにきちんと動いているという。ちょうど3時前だったので、待っていたら、てっぺんにある鐘の両側に銅製の生き物が鎚を持っていて、下の時計が3時になる手前で、まず向こう側の像が1回コーンと打ち、3時ぴったりに手前の像が3つ、コーン、コーン、コーンとならした。本当によくできているし、正確である。これはすばらしい。その音が終わるやいなやガイド女性は僕たちをムラーノ島の職人がきてガラス作りをしているところに案内をした。寺院のすぐそばだ。例の連れて行ってベネティアガラスを買わせる分だ、と思ったが、まあついていった。彼女は僕たちをそこに案内するとかえっていった。1.5時間で3万円プラス17ユーロのチップだ。彼女は別に買わなくて良いですよといったが、まずはガラス工房に入ってくるくると職人さんがガラスを丸めて、形を作り着るところまでを見た。その時に、イタリアの青年が日本語で解説してくれる。かなり日本語がうまく、話もおもしろくじょうずである。妻はイケメンといっていたが僕はそう出もないと思う。おもろいやつだとは思った。実演はすぐに終わり、そのまま導かれて3階へ。そこはベネティアガラスがたくさん展示されていた。ずっと見ていくうちに奥の部屋に連れて行かれ、グラスなど置いてあるところに入った。奇抜なというか、ツール・ド・フランスに出るのかというような格好をした中年の日本のおじさんも色々見ていた。この人は多分お金持ちだと思う。奥様らしき人がいかにもだ。 多分客がどのあたりに興味を持つかとか懐具合で判断しているのだろう。僕を案内した彼は多分腕っこきだ。僕はベネティアガラスには興味があったので、ブルーのワイングラスを見ていたら、彼はそれを棚から取り、二つ持ってお互いにぶつけ合った。カンカンカンと乾いた音が部屋に響いた。僕はびっくりして、「ええっ、大丈夫なんですか?」と聞いた。彼は得意げに強いね、軽いね、普段に使ってください、と言った。持ってみるととても軽い。また、彼は軽いね。値段少し重いね、と言った。 グラスの台の部分から一番根本のところがきれいに飾られ、リング状になっていて、全体に細かい白い線が入っているワイングラスに惹かれたが、彼は10万現金オッケーといった。すかさず、「トゥロッポ・カーロ!(高すぎる)」と言った。彼は「おう、イタリア語ぺらぺらね。僕日本語ぺらね。」と返してきた。しばらく眺めていたが、まけそうにもないので、ここはやはりガイドブックに書いてあったとおり、と思い、「グラーチェ」と言ってその部屋を出た。彼が悲しそうな顔をしていた気がする。
時間ももったいない。下からどんどん日本人やらエレベーターで上がってきた。商売上手だ、気をつけろ。中国人もいるようだ。多分中国語も操るのだろう。今や中国人は上客だろう。 雑踏の中を広場に戻り、運河の方に歩いてみた。大運河が海につながっている。向かいにサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が見える。すばらしい景色。この景色は写真で何度も見ている気がするが、本物はやはり違う。
エメラルド色の海に浮かんだ教会。その周りをまとわりつくようにさまざまな船が行き交う。手前の岸辺に波が打ち付け、たくさんのつながれたゴンドラが揺れている。ゴンドラには座席部分にきれいな青いシートがかけられ、美しいコントラストをなしている。ゴンドリエーレたちの姿も見えるが、客引きをしている様子もなく暇をもてあましている様子。
ここで写真を撮った。本当に絵になる風景である。そのまま手前の建物をまた、引き返し、鐘楼を登ることにした。この鐘楼は96メートルという高さ。エレベーター乗り場にはたくさんの人たちが並んでいた。しばらく待ってから、エレベーターに乗り込み、一気に展望所に。かなり高く、ベネティアがすべて見渡せる。すばらしい光景が広がっている。360度すばらしい。残念ながら展望所には目の粗い金網が張ってあった。写真を撮ろうとすると、どうしてもこの無粋な金網が入ってしまう。
景色だけはカメラをこの金網から出して、撮影した。ぐるりと周り、ベネティアを満喫、大きな鐘を見て、エレベーターで下りた。少々疲れてきたし、生理作用もあり、バールにはいることにしたが、どこも混み合っていて、よく空いたレストランに入ってみた。まあ、ジュース程度なら大したことはないだろう、と考えた。絞り立てオレンジジュースを頼んだ。水がボトルできた。こりゃいいやと思っておいしいジュースを飲んだ。お勘定を頼むと請求が二人で40ユーロだった。ひえーっだ。高い。二つの絞り立てオレンジジュースが40ユーロ、6800円だった。ベネティアは高いと聞いていたが、これほどとは。トイレを借り、外に出た。相変わらずの人混み。ぐるりと広場の店を見て、広場を後にし、アカデミア橋の方に向かった。細い路地と時折の運河にもまれながら、教会の隣を抜け、少々くたびれて、アカデミア橋についた。木の橋ということで、欄干が趣がある。ここから見る、サンタ・マリア・サルーテ教会と大運河の姿が見たくてここまで来た。残念ながらサンタ・マリア・サルーテ教会の美しいクーポラは工事中の足場で囲まれていた。本当に残念だった。しばらくアカデミア橋の木の欄干にもたれて、運河の向こうにたたずんでいる、傷だらけのクーポラを眺めた。向こう側にわたり、そこからヴァポレットに乗った。そのまま、サンタ・ルチア駅へ向かった。途中、リアルト橋の写真を撮り、お別れした。駅で降り、電車の時間までに夕食を食べることにした。駅から左の方向に少々歩いて、運河に面したレストランに入り、運河沿いのテラスでパスタ、ピッザを食べた。急いで注文したときそんなに急いで注文するなというようなことをウエイター氏に言われた。電車の時間にそれほど余裕がなかったので、つい急いだのだが、そういうのは野暮なのだろう。結構行き交うヴァポレットやゴンドラ、モーターボートなど眺めながらの食事はおいしかった。
それほど値段が高くなく、ここは正解だったようだ。
帰りのユーロスターにはきっちりと確認をして乗り込んだ。座席番号の座席があったので、番号通りに座れた。空いていた。あれだけの人々はどのようになったのだろう。周りの人たちを見ていると、やっぱりどこでもいいような。
帰りがけ、ガルダ湖を見ることができた。いつかここにはまた来たい。8時過ぎ美しい夕焼けを見ることができた。9時5分頃ミラノ中央駅に着いた。そのまま、西出口に出て、タクシーに乗った。この運転手さんも猛烈に飛ばす、飛ばす。広くない道路を向こうから来るトラムとすごい速さですれ違う。思わず身を固くした。途中に石造りのアーチ状の水路のようなものが道路にかかっており、この部分も狭く、ここも猛烈なスピードで通り抜けた。あっという間にホテルに着いた。チップは0.5ユーロくらい。さすがに疲れ果て、でも冷蔵庫のビールを飲み、日本からの放送を見て、明日の予定を考えながら就寝。
6日目
今日は予定がなかった。開けていた。多分疲れ切っているだろうから、休養日に当てていた。しかし、妻は意外と元気でどこかに行くつもりだったよう。そこで8時頃起きあがり、準備をした。イル・テアトロでいつもの朝食を取り、コンシェルジェ氏にベルガモ行きの電車の時間を尋ねた。9時ちょっと過ぎだった。彼は今日の電車は2時間に1本で次のものは11時15分発しかないという。着くのに1時間かかるので、往復の時間を考えると無理かなとあきらめた。 ミラノをぐるぐる見て回ろうと考えた。今度はホテルから右手に出て、スピーカ通りに出て、そのままマンゾーニ通りまで歩いた。このあたりも有名ブランドのショップがずらりと並んでおり、すべて閉まっていた。鉄製のように見えるシャッターの向こう側の華やかな世界を少しずつのぞき見ながら歩いた。マンゾーニ通りを中央駅の方向に歩くと道路に門があった。ここはタクシーがものすごいスピードで駆け抜け、怖い思いをしたところだが、由緒あるところらしく真ん中の柱に彫刻が並んでいた。このような光景はあまりお目にかかったことがない。そこから北の方向にある、大きなブッブリチ公園を目指した。
道路を越えると公園だ。まずは大きな木が出迎えてくれた。広い芝生があり、噴水があった。とても水がきれいに保たれ、底もとてもきれいに管理されているようだった。だから、日本の噴水に比べるととてもきれいだった。すぐそばに花壇があり、これもきれいで、二人の係の人が一生懸命草を抜いていた。彼らは休みじゃないのか。曲がりくねった道をゆっくり歩いていくと、人々が思い思いにイスに座っていたり、犬を散歩させたりしていた。犬は放されていて、2匹の黒い大きな犬が小川の中に入ってはしゃぎ回っていた。あまり不安は感じなかった。イタリアの犬たちはよくしつけされているとFさんから聞いていたからである。小さいときから鳴かないようにきちんとしつけられているようだ。デパートやお店など歩いていた。 おもしろい形の岩山があったり、やはり日本の公園とはひと味違うものだった。やはりというかトイレはなかった。そのまま抜けて公園を出ると、通りがあり、地下鉄のブッブリチ駅があり、そこからミラノ中央駅に向かった。次の駅なので、中央駅からグリーンの2番線に乗り換え、ガリバルディに向かった。ガリバルディには国鉄の駅もあり、駅前にはコルソ・コモという場所で、いろいろなショップやレストランが並んでいるところがある。
旅行に出る前にチェックをしていたいろいろなイタリアらしいグッズが売られている店があったのだ。この時期に休んでいる可能性があったが、とりあえず行ってみることにした。 二つ目の駅だったので、次だと思っていたらガリバルディ駅を通過してしまった。どうも信じられない。仕方がないので、そのままランツァという駅で降りた。どうせお店は休んでいるだろうと考え、また、最初に日にもガリバルディに行こうと思って失敗したので、もう縁がないとあきらめ、スフォルチェスコ城にゆくことにした。ランツァからすぐである。しかし、駅を出るとどうも方向がよく分からない。地図を片手に建物を見ながら方角を確かめた。お城は壁が特徴的なので、壁が見えればすぐに分かる自信があったが、分からない。通りを歩いてますます方角が分からなくなり、近くを歩いていた人に今どこにいるのかと聞いた。すぐそばのレストランに勤めている人でパンフレットをくれ、方角を教えてくれた。建物のすぐ向こう側にそのお城の外壁が見えた。その入り口は正面ではなく北西の入り口だった。中世の城門はすごい。中にはいるとそこは美しい芝生が敷き詰められた上品な空間だった。お城の外壁はモダンなデザインに見えた。広々とした空間に青空が見えた。今日はミラノに来て初めての曇りだったが、気温は低く、風も気持ちが良かった。中をゆっくりと見学。すばらしい中世のお城。内装もすばらしい。お城の中に美術館があり、ミケランジェロのピエタがあったのだが、なんと見逃してしまった。後悔先に立たず。売店で小さなお土産を買い、城の外に出た。広大な庭と対面に立派な門があったが、そこにも行かず、街をまたぶらぶらした。ACミランのショップがあったので、ロナウジーニョのユニフォームを買った。120ユーロくらいだった。ちと高かったかな。その後、スフォルチェスコ城から東に向かって街を歩いた。マドンニナ通り(Via Madonnina)を歩いた。人通りは少なかったが、とても雰囲気のある静かなとおりで、クッションやら家具やら、雑貨を売っている店があったのだが、すべて閉まっていた。少し歩くと賑やかな感じになり、リストランテが並んでいた。左側に道路側にベランダのように突き出たリストランテがあり、ここに入ってみた。アラ・ミラネーゼを食べたかったのだ。老人ともいえるカメリエーレが注文を聞きに来た。野菜サラダとアラ・ミラネーゼと注文。とても愛想が良く、楽しそうに聞いてくれた。アラ・ミラネーゼは本当においしかった。アルデンテで何の変哲もない黄色のリゾット。これは満足。その後、ぶれら美術館へ。ここは宗教画がほとんどでガイドもいないし、ガイダンスの機械も借りなかったので、よくわからず眺めて終わった。外に出て建物の裏に回るとなかなかすばらしい建物だった。街中をゆっくり散策、建物の中に素敵な庭があり、鉄の門の向こうに彫像などがあり、中庭がとても美しく整理されていた。しばらくして、ビットリオ・アメヌエーレU世のガレリアに入った。そこでショップを観て歩いた。雑貨の店でおもしろいものがあったが、重たそうなのでスルー。僕と妻は中央の牛の絵の腹部にかかとを当ててぐるっと1回転した。また来ることができるだろうか。裏の方に小さなトラットリアがあったので、コーヒーを飲んだ。そのままガレリアを歩いて、出口付近で男性のシャツの店があり、とてもおしゃれなシャツが並んでいたが、どうもサイズが合わないようだったので、これも見るだけとなった。すぐにスカラ広場に出た。”AMOR”という赤い文字のモニュメントがあり、そこで写真を撮った。そこでは次々に人たちが写真を撮っていた。スカラ座はやはり堂々と建っていた。世界3大オペラハウスのひとつである。多分この中に入ってオペラを見ることはないだろうと思った。
その後,ドゥオーモ駅からM1地下鉄に乗り、カドルナまで行き、M2に乗り換え、ポルタ・ジョノヴァ駅(Porta Genova)へ。降りて歩いてナヴォリオ運河へ向かった。ここは昔から運河が発展したところで、ほとんどの運河は埋められたのだが、ここが残っている。ここには昔ながらのミラノの姿と、新しいいろいろなお店があり、新旧混ざり合い、賑わっているという場所である。骨董市なども開かれるという。ポルタ・ジェノバ駅から右に向かい、そのまま地図を見ながらヴィージェヴァノ通りを歩いた。しばらくすると左側に運河の一部が見え、ゴリツィア通りに入って右に進んだ。そこで妻が空から鳩の糞が落ちてきて服が汚れてしまった。彼らは上の方の階にいたのだろう。気分が悪そうだったが、仕方がない。そのすぐ先に右手に折れる道があり、そこに運河が右方向に流れていた。左側に見えるのは大きな川に見えた。こちらがナヴォリオ運河で予想に反して水が流れていてしかもきれいだった。両側にトラットリアや、小さな雑貨の店があったが、特に欲しいものはなく、意外と賑わいは少なく、静かな感じだった。ここは観光船もあるよう。運河に沿ってしばらく歩いたが、あまり興味を引かれるものがなかったので、写真を撮り、Uターンして同じ道、電車道を歩いて帰った。道の両側にはたくさんの小さい店があったが、休みなのか閉まっているところが多かった。たくさん落書きがあり、異様な雰囲気はあった。このあたりは下町なのだろう。油断できないなと思いながら、注意して歩いた。真ん中あたりに1軒の陶器を売っている店があった。magna という名前の店でシックなお皿や花瓶などが展示してあった。その中にグレーでミューのような鳥を刻印している皿と小さな飾り物があり、気に入ったものが多かったのだが、この2点を購入した。ここの店主は日本の陶器が大好きで参考にしていると言っていた。ここでトイレを借り、そのままポルタ・ジェノバ駅に行き、来たコースと同じコースを通って帰った。ヴィットリオ・エマヌエーレU世通りを歩いてガレリアから出て、すぐの場所にベネチアンガラスの小さな店があり、シンプルなスタイルのワイングラス、エメラルドグリーンののものと濃いブラウンのものを二つ買った。そのあと、通りをぶらぶらしながら見つけたリストランテで野菜サラダ、コトレッタ、パスタを食べた。コトレッタは子牛の肉をたたいて薄くしてこれを揚げたものでLPレコードほどの大きさがあり、ミラノでは有名なカツレツである。まあまあかな。お隣の年配のご夫婦が非常に大きなピザ、パスタ、大きなデザートをしっかり食べていた。日本人とは全然違う感じがした。ビールを飲み、すっかり良い気分になり、ホテルに歩いて帰り就寝。街の夜の姿がきれいだった。
最終日
朝いつもの朝食を摂った。いつも同じものを食べていた。自分でチェックアウトをした。フロントで住所を書いてくれと頼まれ書いた。このような情報は来ていなかったのかと不思議な感じがした。9時出発だった。Fさんが来てくれ、リナーテ空港に向かった。免税の手続きを済ませて、フランクフルトに向かった。余裕を持ってフランクフルトに着き、関空に到着。 すばらしい旅だった。
(終)