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南イタリア

0日目
 台風5号が南太平洋からじわじわと日本に近づき、小笠原諸島を西にゆっくりと進み奄美大島をとおり、高知の南を2日前にとおり、関空に向かってきた。5日前からずいぶん心配していた。2つの問題があった。ひとつは新幹線が運行中止になり関空に着くことができない場合、もうひとつは飛行機が飛ばない場合。関空につけない場合は当日の早朝出かけなければならないが、それも着けなくて飛行機に乗り遅れたら終わりだ。さらに最悪の場合は飛んだ、飛行機事故が起こること。不安を抱えながら台風の進路をチェックしながら仕事をした。午後早めに終了させていただいた。
 しばらく途切れた状態になったので、早く出発できた。5時10分に終了し、車で湊へ。岡山5:53発、岡山からも新幹線は動いており、なんとか新大阪に着いた。新大阪でラーメンを食べ、8:00はるかに乗った。8:59関空。台風は和歌山に上陸し、南紀に行く列車は運行停止になっていたが、「はるか」は動いており、何とか関空に着いた。
日航ホテルに一泊して、8月8日8;30日航ホテルロビーで多田さんと会った。10時にエールフランス航空の飛行機に乗り込んだ。台風は北陸の方に抜けていったが、飛行機はそちらの方向に向かうということで揺れることがあるということだった。台風の後を追う状況。しかしそれほど揺れることなく、飛行した。ディスプレイも大きく、タッチ式となり、以前のエールフランス航空の飛行機より新しくソフトも良くなっていた。
すぐに食事をした。和食でまあまあおいしかった。その後、映画を見た。「「チア・ダン」を見た。日本映画など見ることがないので見てみた。非常におもしろかった。実際によく練習してすばらしい成果を上げていた。少し眠り、イタリア語の復習をして、時間をもてあましながら過ごした。12時間後、パリに着いた。5年ぶりだ。入国審査はあまり混んでいなくて良かった。昨年の激しい混雑を経験したのでほっとした。やはり広い。
ナポリ行きはなんと3時間半後。お店を覗いてみたり、軽食を摂ったり、時間つぶしをして、ようやくナポリ行きの飛行機に乗り込んだ。飛び立ってすぐ、パリの中心部を上から見ることができた。セーヌ川がぐるりと曲がっている風景が遠くに見えた。エッフェル塔はわからなかった。
さよならパリ。今度また来たいな。そのままぐーんと飛び、ナポリに着いた。むっとする空気。ざわざわした雰囲気。ハイヤー車に乗り込んで、ごちゃごちゃした街の中をぐるぐると走り、すれすれの狭い空間を通り抜け、ホテルに着いた。このホテルはこのナポリの中では静かな街だったらしい。目の前に雰囲気のある卵城、それを取り囲むような青い海、右側に半島と明るい街並、左側に半分ほど控えめにその姿を見せているヴェスィビオ山。この位置からはよく写真で見るベスヴィlオ山と港の姿は見えない。となりのエクセルシオールホテルの東側の部屋からからは見えるだろう。 日本時間だとすでに午前5時頃に当たるため、すぐに眠った。

1日目
朝の光が左側からささやかに入り込んでくる。卵城は淡いオレンジ色の壁、蒼い海。すぐ前の道路をランニング、散歩、犬たちとの散歩をしてる人たちが朝を楽しんでいる。ニースを思い出した。とても良くにた風景だった。城はなかったけれど。まあ、ここでは泳いでいる人たちはいなかった。
朝食は1階のレストラン。すでに待っている人たちがいて、7時に入った。食品の数と内容は貧困。パン、パンケーキというかほとんどスイーツ、果物、ジュースはオレンジ系、トマト、モッツァレラ、卵、ハム、ソーセージなど。スイカがおいしかった。
9時にホテルのロビーに女性のガイドさんが来ていた。添乗員のTさん、ガイドのローザさん、運転手さんとでワゴンに乗り込む。ローザさんは東京の大学に留学していたとのこと。39歳で日本語はぺらぺら。サンタルチアの港を通り抜け、高速道路に入りヴェスビオ山の南側を通り抜け、25分ほどでポンペイに着いた。79年にヴェスビオ火山が噴火して街がその火山灰に埋もれてしまい、そのままの状態が残ったままになっている都市だ。紀元前2世紀頃から発展した都市で豊かな生活をしていたようだ。古代ローマ人がいかにも優れていて、素晴らしい文化を持っていたかがわかった。大劇場、裕福な層の家などの建物の構成、商店街、パン屋さん、洗濯屋、浴場床暖房のシステムもあったようだ。本当にすごい。道路と歩道、石畳の上に残る馬車の轍、人々が火山灰に埋められて亡くなったそのままの形を石膏で残していることも驚愕である。実際に見てみると非常に小柄である。犬、ネコなどペットもいた。しかし、一瞬にしてあるいは徐々に苦しみながら命を絶たれたのだろうか。想像することすら難しい。
メインの通りをゆっくりと歩く。しかし、見学するところは樹木が少なく、木陰が全くなく大変な暑さだった。中央に近いところでお店があり、ここで水分をしっかり取って休んだ。この暑さは半端なかったのでたくさんの水分を飲んだ。少し元気が出たのでそこから秘儀荘へ向かった。くだり道をゆっくり歩いた。数匹の蝉たちが鳴いている。ジッジッという声で今までの経験した蝉たちとほとんど同じである。坂を下ってところで右側に普通の家が見られその庭にはブーゲンビリアがとてもきれいな紅い花をつけていた。そのすぐ下方に秘儀荘があった。ここは紀元前2世紀前半に建設された大変立派な建物で、この場所にも亡くなった人達の石膏型が置かれている。最後の部屋には「ディオニュソスの秘儀」への入信を描いたフレスコ画が描かれており、背景にはポンペイの赤が使われている。この赤は紅に近い鮮烈な色彩で非常に美しい。これだけの美しい赤を生産することが出来ること自体がすばらしい。
頭にしっかりとこの色をたたき込んでこの家を出た。外はとても暑く、すぐ前におみやげ店があり、水と息子へのみやげを買った。
 ポンペイを後にして再び高速に入り、右側にヴェスヴィオ山を見ながらナポリに帰った。街に入るとまた頭がごちゃごちゃになった。中心部のスパッカ・ナポリ(Spacca Napoli)の通りに降りて歩いた。確かにまっすぐでしかも細く、坂になっている。ここがあのナポリを東西に真っ二つに分けるというナポリの旧市街。教会やお店が建ち並んでいる。ある小ぶりな広場に面したリストランテに入った。あまり混んでいなかった。女性3人とぼくでピッツァ・マルゲリータ1枚とサラダ、パスタ1人前でシェアして食べた。ローザさんはイタリア女性だがピッツァを4分の1ほどしか食べず、僕がたくさん食べた。マルゲリータは厚みでこれもしっかりとした味で美味しかった。彼女の持つ雰囲気が何となく日本的な気がした。コーヒーを飲み、トイレに行くと大変な暑さだった。そこから出て、すぐ近くのジェズ・ヌォーヴォ広場(Plazza Gesu Nuovo) に出た。イエスズ会の布教を称えるインマコラータの塔がある広場で、これに面したジェズ・ヌォーヴォ教会に入った。奇妙な外観 元は宮殿だったものを1584年に改築した教会でピラミッド型の尖った石積みの壁が非常に頑強な感じ。内部は豪華で広大な教会内部、バロック様式。そのすぐ前にサンタ・キアーラ教会。1310年バロック様式。改築後火事にて消失。20世紀にゴシック建築で再建。マヨルカ焼きのタイルで飾られたキオストロ(回廊)が素晴らしい。ぐるりと回ってマヨルカ焼きの色合いを四方から楽しんだ。教会内に不思議なものを見た。大きな回転するドラム缶のようなものがあり、これにこどもを預けるという。この時代にすでにこのようなものがあったのか。サンタ・キアーラ教会を出て古い町並みを歩いた。雰囲気はとても良い。ナポリは危ない街ということだったが、そのような感じはなかった。車に乗り高台から街を見ることにした。細い道をぐるぐる上る。ぐるぐるぐるぐる。石畳で揺られて体をきちんといじるするのが、とても大変。突き当たりをまた曲がり、を繰り返しようやく頂上付近にたどり着いた。建物がたくさん建っていて、高級住宅地だという。その先の展望台に降りた。かなり暑い。ヴェスヴィオ山と港の有名な風景写真の風景を想像していたが、違っていた。右側に城のような茶色の石垣があり、港は見えるが、海も一部しか見えずその先には控えめなヴェスヴィオ山が見えた。モナポリの煩雑でカラフルな街はしっかり見えた。どうも海を遮っているのはサンテルモ城と思われたが、説明を聞くこともなく、暑いので写真を撮ってそそくさと車に乗り込んだ。そこはそこで素晴らしいのだが、違う。そのことをローザさんに伝えると、それではと言うことで別の場所に移動することにした。一度下って、また左方向に登ることになった。今度はそれほどぐるぐる行くこともなくまたしても住宅街に出てきて、右方向に少しくだった。右側に谷が見え、その下にナポリのサッカーチームのサッカースタディアムがあるということだった。右にゆっくりとカーブしながら下って行くと道路沿いに笠松が街路樹として植えられていた。きれいに並んでいる。絵になる。笠松という松を知ったのはポルトフィーノに行ったときにお城に植えられていた。これはローマの松ともいわれ、字のごとく笠のような形で下枝を切りトップが広がるように調整しているようだ。しかし、全く下枝を切らなくても途中の枝は枯れていくという。ナポリのそこかしこに見られる。高速道路沿いにも笠松の森のようなところもあれば、邸宅のまわりに植えられているところもある。道路に降りて谷を見た。サッカースタジアムが見えた。動物園もあった。その先は海で小さな島と細い半島が見られた。少年院のような施設があるということだったが、素晴らしい環境に見えた。

大きく左に曲がると海の向こうにヴェスヴィオ山が見えた。ナポリ港も見え、写真で見た風景がそこにあった。手前に卵城も見えた。道路際に降りて写真を撮った。なんだかすごく暑いので外にいられない感じがした。なんとこの日ナポリは42゜Cあったということだった。それでもしばらく景色を楽しんだ後、車に乗りホテルに向かった。すぐに道路の海側と山側に火事の跡があった。大きな家が焼け跡となっていた。ここから見るナポリは本当にすばらしいのに。ぐるぐると回りながらホテルに到着。かなり疲れていた。ホテルの部屋に入るとシャワーを浴び、ベッドにごろりと寝転がったらいつの間にか眠っていた。
 起き上がり、ベランダに出て、夕暮れの海と卵城を楽しんだ。日が暮れてきてすぐ前の卵城に行く通路の左側、港の手前にあるレストランに入った。すぐそばに海があり、ボートがたくさん並んでいた。その向こうに卵城が見えた。壁とガラスはなく、海の息づかいを見ながらの食事となった。気温が高かったのでもやっとはしていたが、気持ちはよかった。僕はスパゲッティ・ボンゴレを注文、妻は何でボンゴレ?という感じで僕を見ていた。妻とN子さんはサラダとリゾットを注文。少しずつシェアして食べた。リゾットは美味しかったが、ボンゴレパスタは今ひとつで、アサリの中に砂が少し混じっていてざらざらした。これには少しいやな感じがしたが、まあこんなものか。白ワインを少し飲んだ。これもまあまあの味だった。
あたりが暗くなると、卵城は淡いオレンジ色に染められ、とても雰囲気があった。レストランを出て橋を渡った。左側に海と街の海岸線が見えた。今日、あの海に突き出た場所から港やヴェスヴィオ山を見たのだ。今はやさしく語りかけてくる所となってため息をつかせてくれた。僕たちの泊まっているホテルも夜景としても美しいく調和していた。やっぱりナポリはすてきだ。
ホテルに帰り、ゆったりとバスにつかり、風呂から出た後、またベランダに出て卵城と海を見た。夜景はとてもきれいで卵城が美しく浮いているようだった。目の前の海岸通りには人が多く歩いて、夜を楽しんでいた。

2日目
朝早く起きた。今日はカプリ島に行く。朝、1階のレストランに行ったが、まだ誰もいなかった。窓際にテーブルをとり、ビュッフェ形式の朝食を摂った。パン、チーズ、ハム、ソーセージ、サラダ、果物、ケーキ類、あまり種類は多くないので選択肢は少なかったが、味はまあまあだった。昨日食べていなかったものを選んだ。デザートやケーキはとても甘くイタリアらしかった。パンはパンケーキのようでこれもイタリアらしい。 朝食を終え、用意をしてホテルの玄関へ。それほど熱くはなかった。ホテルのすぐ横にタクシー乗り場があり、タクシーで港まで出かけた。もうすごいスピードで走る。とても狭い道もなんのその、ぎんぎんならしてナポリ港に着いた。運転手がぼったくりそうな雰囲気だったが、Tさんが拒否して普通の料金とチップを払っていた。
目の前に大きめの観光船が見えた。海はきらきらとして気分を高めていた。どんどんと観光客が集まってきた。僕たちはとても早いほうだったが、45分くらい待って船に乗り込んだ。中央のあたりの左側の窓際の席を選んだ。8時45分発出発。左側にはヴェスヴィオ山が見えている。
昨日ポンペイを案内してくれたローザさんが海からナポリを是非見てねと言っていたので、動き出してからナポリ港を見るためにデッキの2階に出て見た。本当にナポリが美しい。後ろの山オレンジがかった街。本当にすばらしい。
しばらく経つと波が高くなっていた。もうナポリも遠くなっていった。右の方向の先にカプリ島が見えている。青の洞窟はこのくらいなら大丈夫なのだろうか。不安になる。洞窟に入れるのには夏の時期で70%程の確率しかないそうだ。

今日はポジターノに宿泊する。最初はアマルフィを通り抜けるだけの計画だったが、どうしてもアマルフィに行きたいと黒川さんに言って、ポジターノのホテルをとれた。 ポジターノはアマルフィから10キロくらい西にある。素晴らしい街である。アマルフィに向う途中にラヴエッロに寄った。どうしてもラベッロも一度見てみたかった。 トンネルを抜けると山の上だが、ドゥオーモがあり、広場はきれいでそこから歩いた。少し山の小さな道を降りる感じで歩いた。人が大きな荷物を運んでいた。 ヴェッラ・チンブローネに。素晴らしい海岸が見えた。入り口の左側に尖塔アーチの中央にねじり円柱が施された小さな回廊があり、庭園の置くの海岸側に張り出したテラスからはされるのまだ続くアマルフィ海岸のパノラマが広がっている。
胸像のテラスがあった。これを無限のテラスとも言っているようだ。とても雰囲気が良くて素晴らしい。崖の下に海がずーっと見える。
  ※ディオニュソスの秘儀 左側の裸の少年が儀式の作法を読み上げる場面から始まる連続絵画。中央の玉座にいるのがディオニュソス。神秘的でスケールの大きい作品はヘレニズム絵画の影響を受けたカンパーニャ地方の画家が紀元前70〜60年の改築時に描かれたものだと言われている。  ※マヨルカ焼き マヨリカ焼き(Maiolica)はイタリアの錫釉陶器でルネサンス期に発祥した。 白地に鮮やかな彩色を施し、歴史上の光景や伝説的光景を描いたものが多い。 地名呼称の表記のゆらぎによりマジョリカ焼、マヨルカ焼、マリョルカ焼、マジョルカ焼とも。
マヨリカ焼きには、1000年以上もの歴史があります。もともとはイスラム圏で作られていた陶器で、イスラム勢力の拡大とともにスペインに渡り、そこで焼成された陶器が、マヨリカ島を経由してシチリア島へ輸出されていました。そして、古代からすでに陶器作りが行われ、高い技術があったシチリア島でも製作に成功。イタリア独自のデザインを加えたオリジナルの陶器がシチリアを中心に作られ、イタリア各地に広まっていったのです。ルネサンス期には、イタリア各地で独自の色や技術が開発されて発展。より芸術性の高いマヨリカ焼きが誕生しました

続く

紀元前、古代ギリシャの植民地「ネアポリス」をベースにした世界遺産、旧市街の通称スカッパ・ナポリ、ナポリをふたつに割ったといわれる トリブナーリ通り(Via dei Tribunali)

サンタルチアについて
サンタルチアはイタリア南部の都市ナポリにある港です。イタリアの民謡である「サンタ・ルチア」で知られており、ナポリの観光名所の一つです。
サンタルチア港に突き出た小島がありそこに建つカステロデローヴォという城があり、ローマ帝国時代の執政官だったルクルスの豪華な別荘でしたが、11世紀に、この地を支配していた、オートヴィル家が要塞を築きました。別名卵城と呼ばれる城ですが、由来は城の基礎を卵で埋めたため卵城と呼ばれるようになりました。
歴史
そもそもナポリの起源は紀元前470年頃にギリシャの植民都市として建設されたことまでさかのぼります。当時の町の名前はネアポリスと呼ばれ碁盤の目のように整然とした都市計画の元に整備されたと考えられております。62年と79年に地震が起こり、深刻なダメージをナポリに与えましたが、復興をとげることが出来ました。11世紀にノルマン人がナポリに侵入し、ナポリを支配しました。13世紀に入ってアンジュー家がこの地でナポリ王国を興し、繁栄を迎えました。1860年にイタリア王国へと併合され、他の都市と比べて近代化が遅れてしまい、衰退しました。
見どころ
サンタルチアの見どころは青い空と青い海が見えるその町並みです。世界的にも有名な言葉である「ナポリを見て死ね」ができるほどのきれいな町並みです。また大きな港なだけあってたくさんの船が停泊しており、賑わっています。サンタルチアの海岸沿いには、立派なホテルが立ち並んでおり、広い公園が続いています。先ほど紹介したカステロデローヴォからは、サンタルチア港やナポリ海岸にある火山ヴェスヴィオ山を見渡すことができます。
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