カレンダー
ふと見上げると、オードリー・ヘッパーンがほほえんでいた。本当に美しい。それはカレンダーの表紙の写真で、めくられることなく1年と少し過ぎた。そして、そのカレンダーの下には一昨年のオードリー・ヘッパーンのカレンダーが。実はまたその下にも。さらにその下には何年か前の"新品"のクレーのカレンダーが手をつけられることなく吊されている。
カレンダーを重ねて吊すのは僕の趣味ではない。おそらくは一種のものぐさなのだろうが、懲りることなく毎年新しいカレンダーを買って来てはつるし首にしている。ここ10年間、欠かしたことがない。
以前、カレンダーは製薬会社や、取引先のところからいただいたものを使っていた。この頃は不景気のためか、めっきりといただくカレンダーが減ってしまった。
その頃からカレンダーは買うものだと思うようになった。
一枚もめくられていないものは僕の部屋のものだけである。他の部屋のものは家人が面倒を見ているのだろう、月が変わると新しいページに変わっている。
めくられていないカレンダーは数種類、今かかっているのはオードリー・ヘッパーン、ほかの場所にクレー、ミロ、ゴッホ、モネのものがある。これらはすべて輸入物で少々高価であり、ポスターとしてはなかなか立派なものだと思う。額装してもいいなと思って、古いものも保存している。保存の仕方は机の端の狭い空間にそのままほこりよけもしないで閉じこめるというずさんなものだ。重みで丸まった上にほこりが踊っている。
整理整頓は僕のかなうはずのない永遠のテーマで、思わせぶりな火星のように遠い。
額装することはおそらくは永遠になかろう。彼女たちはその任を全うすることなく、誰かの手によっていつか捨てられる運命なのだ。
なぜ、めくって使わないのか僕にもよくわからない。表紙や一枚目の写真がとてもきれいであるとか、気に入っている場合が多い。だから、破り捨てるのがもったいないのだと思う。いくら気に入っているからといって、高校生じゃあるまいし、壁に貼り付けるのはさすがに気が引ける。そして、思い切ってめくった一枚のオードリーをとても捨てられない。小さく切って裏をメモ用紙にするなどとんでもないことである。
以前、一枚目の美しいオードリーを丸めて、立てかけていた。ある時気がついたら、オードリーの顔が真ん中でクシャッと折れていた。悲しかった。それがトラウマになっているのだろうか。
カレンダーとして使うときには表紙しか見えないので、はぐってみる。実に簡単だ。 こうして、僕のオードリーたちは毎年同じピンにつり下げられ、どんどん分厚くなり、そのうち、自らの重みのためか、地震の時に壁からはがれ落ちるのだろう。その時はオードリーの顔はさらにぐしゃぐしゃになっているだろう。なんとかしなくては。
今年もまた、懲りることなくオードリーのカレンダーを買ってきた。今までの大きな写真のものは残念ながら売り切れていて、レコードジャケットサイズで開いていくタイプである。今年すでに1ヶ月が過ぎたが、ナイロンで封印されたままである。
(児島医師会報 2004.2月号掲載)