壮年のテニスフリーク


 朝起きると、右手で右のこめかみを強く押してみる。右肘がきゅんとくる。もう8ヶ月が過ぎた。これではまだテニスができないのだろう。僕は今年52歳になる。この年になるまでテニスにこのように執着しているとは学生の時には夢にも思わなかった。
 高校時代に柔道部で痛めつけられた僕は相手と接触するスポーツを二度としないと心に決め入学後卓球部に向かっていた。しかし僕の前に立ちふさがったのはOだった。彼に引きずられるようにしてテニス部に行き、その日からテニスの虜となった。

 テニスにはあこがれていた。負け続けの僕は丸坊主になり柔道部の隣のテニスコートで軽やかな音をさせながらボールを打つ女子部員達を格子の隙間からボーッと眺めていた。

 テニスにもセンスがないことにはすぐに気がついたが、加えて体力もなかった僕は、それでも少しでもうまくなりたいと願いキツツキのようにボールを打った。どうしたらボールが真ん中に当たり、まっすぐ飛ぶかということばかり考える毎日だった。フォアが少し打てるようになっても、バックはさっぱりだった。デビュー戦で、バック側に構えた僕はフォアに短いボールを集められてあっという間に負けた。悔しくて、バックの練習を積んだ。練習終了後ボールが見えなくなるまでひたすら板打ちをした。しかし、なかなかうまくならず医学部に来てからも授業をよくさぼって練習をした。
 時折きちんと授業を受けようと思うとアンパンマンのような同級生Sが「あのなあ、せのお〜?」と語尾上げで誘うのだった。当然ながら断ったことはない。コートの隣は看護学校の教室だった。看護学生が休み時間に僕たちを見ていた。格好つけたがかっこいいわけはない。実は嘲笑され、あきれられていたのだった。
理想のテニス選手はケン・ローズウオールだったが、僕のテニスは彼のものとはほど遠く、ひたすら続けるものだった。本当はネットに出て華麗なテニスをしたかった。しかし、ネットプレーヤーとしての才能がなかった。仕方なくベースラインで1球多く相手のコートへ入れるのだと自分に言い聞かせ、勝ちにこだわった。

 文字通りテニス漬けだった。テニス練習が終わったら麻雀をした。コート以外、女性の姿はおろか陰もなかった。片思いという病歴だけはなぜか重ねた。雨でテニスができないときは麻雀か、メンバーがそろわないときには同級生Oと「女の子に声かけてみようか」などといって表町をあてもなくさまようのだった。ぬいぐるみにすら声をかけたことはなかった。その点では寂しい学生時代だったかもしれない。
 続けるだけの僕は相手にいやがられ、団体戦では少し勝てるようになった。もう少しで優勝というところまで来たが、最後は悔しい2位で僕の学生のテニスは終わった。仲間に恵まれすばらしい学生時代だった。

 卒業後テニスから遠ざかっていたが、開業後は様々なストレスにさいなまれ、再び始めた。以来テニスは僕の精神的な支えとなった。たった一球のクールなボレーがポーンと決まるだけでいろいろなうさを忘れることができた。打ったボールの数だけストレスが飛んでいく気がした。倉敷の一般の試合に出、勝つために一生懸命練習した。走った。真夏も3つ,4つシングルをした。筋肉トレーニングを必死でした。結果も少し出た。
 しかし、7年前に右の手関節を痛め、2年半かかった。3年前に右変形性膝関節症になった。2年後ようやく再び始めたら、昨年の夏にテニスエルボーになった。膝もまた痛くなった。とにかくいったん痛めると長くかかるのだ。最近物忘れが激しく、どこがどのように痛いのかわからなくなった。ラケットを握れない日の方が多くなったが、じっと耐えている。テニスのことを考えると憂鬱になってしまうのだ。ストレスを発散しようとしていろいろなものに手を出したが、テニスに換われるものはなかった。旅行も車も音楽や映画やミュージカルも京都のお寺巡りもお墓参りもテニスのボレーの一球には及ばなかった。現在も次々と体のトラブルがあふれ出てくるが、できるだけ早く復帰してボールをひっぱたきたい。今の様子だと多分無理かもしれないが、老人になってもテニスを楽しみたい。

 A教授が今もお元気でテニスを楽しまれているのは本当にすてきだ。いきいきと楽しそうにボールを打っておられる。僕も先生のようになりたい。  今はテニスの仲間や後輩と酒を飲むとき、テニスの会話に加われないのがなんとも寂しい。いつか必ずまたテニスを、とガットで頭をたたく日々である。 

  さて、学生時代、初心者の僕が多少でも勝てるようになったのは、多くの方々のおかげだが、特にM先輩、S先輩、同級生S、同O、5年後輩であるTの5人の方々に感謝の気持ちが強い。M先輩はテニスを愛してやまない人である。すばらしい身体能力を武器に、ストレートで豪快、強いテニスを今もされている。常に前向きで、後輩の指導することと勝つことに対するに強いこだわりを持っておられた。「せのお、おまえ強うなったのう」と言ってもらえるのが本当にうれしかった。

 3年上のS先輩は僕たちとってはM先輩と同じく神様のような人であり、限りないオーラを持った人だった。テニスは華麗、スマート、時に繊細に見えるが、実は肉体、精神ともにすごくタフで、戦略家。ニヒルな感じだったが、熱いハートを持っておられた。とにかくすごく強く、かっこよかった。麻雀もまた大変強かった。2年生の時、長崎の西医体の帰りに別府で諸先輩方は怪しげな所へ出かけたが、なぜかS先輩は行かなかった。もちろん僕も。Oがその後長い間、S劇場でかかっていた曲「飛んでイスタンブール」をうれしそうに口ずさんでいた。
 僕はその夏なんとS先輩のコーチをうけた。信じられない出来事だった。必死で先輩の球を打った。その後、本学のレギュラーとして団体戦に初めて出ることになったときに、その試合を見に来てくださったが、僕は緊張でぼろ負けした。いつも恩返しをしたいと思っていた。
 同級生Sには勝つという心を教えてもらった。いつも猛烈な闘争心をむき出しにした。死んでも負けないという気迫、ウシガエルのような胃袋とハイエナのように執拗で疲れを知らない体力を見せつけられたとき彼には絶対勝てないと思った。
 4年生の時、中四国王座戦で岡大は松山商大と当たり、僕にポイントがかかった。相手は格上だったが、セカンドセットを取りファイナルになった。ここであたりは暗くなり、ナイトゲームになった。経験がなかった僕は弱気になり、自分を失い、ネットに出てスマッシュをことごとくミスした。ボールが見えないとぼやいた。このセットを落とし、岡大は負けた。宿舎でSが"死にものぐるい"という言葉で苛烈に責めた。悔しくて泣いた。以来、"死にものぐるい"で戦おうとした。結局はできなかった気がするが、勝ちに強くこだわるようになった。 
 後輩Tはすごい選手だった。本当に残念なのだが、僕は彼の一番輝いていた時を知らない。後の西医体3連覇の礎を築いたのは彼の功績である。Tと優勝したかった。6年生の時、西医体の前、Tに負けたくない一心で猛烈に走り込みをした。 
 最後に同級生Oのこと。体の固さは銅像のよう。テニスは性格通りまじめそのもので、そのため融通が利かなかった。一緒に本当によく練習もし遊んだと思う。性格もそうだが、テニスにもとても愛嬌があった。お世辞にもかっこいいテニスではなかったが、型にはまるととても強くダブルスでかなりよい成績を残している。Oに勝つのが僕の目標だったが、低い目標だったことに気づいた。少々遅すぎたかも。しかし雑草のような僕たちが6年生の時に強力メンバーを擁する大阪医大を相手にあと2ポイントで優勝というところまで来ることができたのはOのリードオフマンとしての卓越した力があったからだと思う。
僕をテニス部に無理矢理引きずっていってくれて本当にありがとうO。心から感謝している。   
                         
 (文中敬称略)
(岡山大学硬式庭球部部長 赤木医学部長退官記念において庭球部記念誌に寄稿したものに手を加えて掲載しました。 平成15年8月)

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