嗤う耐性菌


 「抗生物質――奇跡の薬はもはや終わりか?」
 1994年3月28日付けのニューズウイークの表紙に書かれていた文句である。私は読んでいないのだが、ここに紹介させていただいた。数年前、“人を食う細菌”として人々を驚かせた激症溶連菌、2年前の病原性大腸菌O157、その他ペニシリン耐性肺炎球菌、スーパー淋菌、新型コレラ菌の出現、そして多剤耐性結核菌、真打ちMRSAなど近年、細菌の話題には事欠かない。しかもどれも非常に厳しい状況にある。  かつて人類の病苦は感染症であった。伝染病の猛威の前に大きな都市が廃墟と化することもあった。結核にかかることは死の宣告を意味した。

 私たち人類は1928年フレミングの発見したペニシリンの出現以来、抗菌剤の多大な恩恵を受けてきた。多くの死の淵にいた人々が抗菌剤のおかげで命を救われてきた。
さらに衛生観念の発達とともに感染症で死にゆく人は減り、いつしか医師の関心は感染症から離れていった。細菌という大きな人類の敵を前に、抗菌剤をひっさげて、人類は勝利したかに見えた。しかし、もはやそれが、幻想であることは医師ばかりでなく、一般の人々も気づき始めている。

 結核についていえば、多剤耐性結核菌の出現はきわめて恐ろしい深刻な問題になりつつある。
 アメリカは2010年までに結核の撲滅宣言をしようとして、予測を誤った。AIDSの出現によって多剤耐性結核菌が急増しているのである。免疫不全のAIDS患者は結核菌の格好の標的なのである。結核感染者の数はコッホが結核菌を発見した頃よりも今の方が遥かに多く、すでに死者の数は世界中で年間300万人を越えた。これはどの時代よりも結核の死者数が多い。結核は再び治らない時代に戻ってゆきつつある。

 今日も私たちのところにMRが新しい抗菌剤を抱えて使えといってくる。
MRは会社の存亡をかけて、多額の費用をかけて開発した新しい、しかし、さほど違わない代物を持ってきては、開発費を上乗せして、どんどん使えと売り込んでくる。仕方がない状況ではある。彼らは営利のために薬を作って売っている。売れなければ失業だ。 医師の方はといえば新しい高価な利ザヤの稼げる抗菌剤をより使うようになる。薬を売れば儲かるしくみだから仕方がないのか。これは明らかにシステムが悪いと思う。加えて広域スペクトルのものが特に好まれ、さながら絨毯爆撃、いや原爆のような治療である。殺し尽くすという姿勢だ。今では売れないので狭いスペクトルのものはほとんどない。
どんどん使えば、当然あっという間にその抗菌剤に対し耐性ができる。  

 もうかなり前から耐性菌の出現は重要な問題として、我々の前に立ちはだかっていた。
 私たちの体の中にはきわめてたくさんの細菌がすんでいて、ある研究者は細菌叢そのものが臓器であるというほどである。そのほとんどは無害であるばかりでなく、重要な働きの一つとして私たちの生体防御を担ってくれている。抗菌剤は効けば効くほどそれらの多くの私たちの味方の細菌たちのほとんどを殺し尽くし、ほんの少数のその抗菌剤に対して効かない悪役の細菌たちが栄養を独り占めし、さらなる耐性を獲得しながら増殖し、他の細菌に耐性を移植する。

 「耐性菌の輪」がどんどん広がっていく。
耐性の獲得の形態はざまざまだが、その結果いろいろな菌が多剤に耐性となっていく。それこそあっという間である。現実にメチシリンが出た1年後にはすでにMRSA(メチシリン耐性ブドウ球菌)が出現していた。
MRSAが出現したときは医療現場は強いショックに襲われた。しかし、 バンコマイシンの出現により、MRSAはその死亡率を少々下げ、沈静化したかに見え、移ろいがちな人々の関心が失せかけていた。
 その裏では、やはりバンコマイシンが大量に使用されている現実がある。その使用量は前年の3倍以上だという。手術後や、人工透析、その他MRSA感染が起こりそうな状況でかなり使われている。MRSAを恐れるあまり予防的にもバンコマイシンが使われているという。そして研究者たちの不安は的中した。

 ひとときの安堵も実は、さらに恐ろしい時代の到来の前触れだったのだろうか。それはバンコマイシン耐性腸球菌(VRE: Vancomycin-resiatant Enteroccocus)の登場によって始まった。
すでに日本でもVREが発見された。VREは食肉用の鶏の成長発育を促進するために飼料として大量に添加投与された抗生物質アボパルシンによって耐性を獲得したと考えられている。この抗生物質はバンコマイシンと同じ構造を持つ。その菌が食肉を介して、人に感染したというのである。

 重要なことは、薬剤耐性をつかさどる遺伝子が腸球菌から黄色ブドウ球菌に種族を越えて移る可能性があることである。もしVREの耐性遺伝子が病原性の強いMRSAに伝われば、誰しもが予想できる悲惨な状況となろう。1992年には英国の研究者により、バンコマイシン耐性腸球菌と黄色ブドウ球菌をいっしょに培養すると、数時間後に耐性遺伝子の乗ったプラスミドが黄色ブドウ球菌に導入され、バンコマイシンに対するMICが1000μg/mlもの高度耐性ブドウ球菌が誕生したことが報告されたという。このことから、伝達性プラスミドによってMRSAがバンコマイシンの耐性を獲得するのも時間の問題だという。これは本当に身の毛もよだつほど恐ろしい。

 衰えたように見えながら、細菌たちはさまざまな進化を遂げ、武装化して、またはるかに強い防御能力を得て、今私たちの前に猛然とその姿を現し始めた。人と細菌の戦いは、生物間における生存競争である。細菌たちは宿主の生体防御機構から逃れ、あるいは戦うために、絶妙の進化をする。いかなる抗菌剤も必ず耐性ができる。
 今も世界中で静かに、密かに新しい耐性菌が生まれつつある。そして奇跡的な有効性そのものが、まさに有効性ゆえに耐性菌を選択し、奇跡的有効性を破壊しつつある。そして耐性はとどまることなく拡散していく。「魔法の弾丸」であったはずの抗菌剤が、もはや全く役立たずになりつつある。
現実に発展途上国ではかつてはごくありふれた抗菌剤で治療可能であった細菌感染症で多くの人々が日常的に死んでいる。

 多くの製薬企業は長い年月と大金をかけて抗菌剤を開発してもあっという間に耐性菌ができること、また、大事な薬であればあるほど使用を制限しなければならないことになり、それらの多くはその開発そのものに消極的になっている。また、臨床試験まで入っている抗菌剤の中には、種類の違う新しいものはもうないといわれている。医師が重症の患者の前で手も出せない状況が来るのは間近のようである。

 かなり近い将来、私たちは簡単な手術さえも命がけになる日が来るのだろうか。
本当に抗菌剤はもはや何の力もない薬になってしまうのだろうか。はたまた、再び人類は今の抗菌剤とは全く異なるタイプの“魔法の弾丸”を手に入れて、新たなる細菌と戦うことができるのか。
 私たち医師が抗菌剤の使い方を厳しくしてゆくことが大切であることと、抗菌剤の開発において、企業が行うのではなく、国単位、あるいは世界中で共同して研究開発を行う必要があろう。耐性菌の問題は人類の大問題なのだから。


前の画面に戻る 大山の憂鬱へ
禁転載・禁複製  Copyright 1999 Senoh Pediatric Clinic All rights reserved.