大山の憂鬱


 大山は僕にとって鬼門なのだろうか。いつも大山はあこがれの山であった。米子からも美保が崎灯台からも孤高の山容は端正で美しい。
そして、桝水原のリフトに乗り、見下ろす弓が浜がこれもまた美しい。ただ、残念なことに大山の頂上からきれいな弓が浜を見たことがない。

 大山には最初は中学校の授業で登った。いや登ろうとした。今も岡山県では中学3年生が大山に登っている。
 大山寺に一泊して、登ろうとしたその朝には滝の様な大雨だった。まるで雨のカーテンで、向こうが見えないくらいだった。大変残念だったが、杉木立をわたる風とすっくと立ち上がった杉たちと平行に落ちる雨つぶたちとそしてそのザーッという音が妙に調和して、不思議な静けさを感じた。ふとこんな雨なら悪くないなと思った。山行きは大山寺の上まで上がり中止となった。

 それから、23年後の夏、妻と子どもたちの5人で、念願の大山に登った。
 その年は暑い暑い夏で毎日雲一つない晴天が続いていた。登る前日まで。青空はどこにもいってしまいそうにはなかった。到着した日、深田久弥氏が夕陽に染められるときの美しさは古陶の肌と形容した北壁はやはり美しかった。大山は機嫌がすばらしくよかった。


 しかし実は暗雲が迫っていた。
 翌日の天気予報は曇りとなっていた。不安をリュックに押し込み、朝起きて見上げた空は曇天だった。だが、頂上が見えている。何とかなりそう。淡い期待を胸に特注のおにぎりを入れ出発した。
 何とか6合目までは弓が浜も見えていたが、ガスが迫ってきた。残念。しかし、ガスの中を登り続けた。9合目になり、ああ、雨が降ってきた。どんどんひどくなる。風もかなり出てきた。用意した雨合羽もざるのよう。ハイ松がいやいやをしていた。
やっとの思いで、頂上直下の避難小屋へ。たくさんの人たちが同じ顔をしていた。そのうち、雷が鳴り始めた。ひどく近かった。ものすごい雨と雷だった。2時間ほど待っただろうか。雨が少し和らいだが、雷はまだそこに居座って僕たちをからかっていたが、勇気のある人々がぼつぼつ出ていった。もちろん景色を見るどころではない。降りるのみ。 

 雷が僕たちを驚かすのを飽きたのか、少し遠ざかり始めたとき、僕たちは出発した。風と少し弱くなった、雷の遠吠えにおびえながら少しずつ降りた。原生林の中に入ったとき呼吸が楽になった。3合目を下ったところで、息が抜けた。一番下の娘がかなり疲れていたので、彼女の足元に集中していた。と、その時、僕の左足が小さい岩に乗り、その岩が笑った。グキッと音がした。あっ。足首を恐る恐る見るとすでに腫れていた。とにかく痛みはそれほどでなかったので、何とか降りた。車にどうにか乗れたので、湿布薬を買って手当をした。次の日はかなり痛かったが、湿布をしたままで、弓が浜で海と遊んだ。憎らしい大山はてっぺんに雲をなびかせていたが、美しかった。悔しかった。結末は捻挫だった。

今は膝が心配だが、また、登りたい。向かう方角を調べて、絶対快晴予報のときに。

(1999.10)

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