12年の計


 年始に当たって・・・年男のつぶやき

 一年の計は元旦にありというが、今後の12年の計は今年の1月にありとしていいだろうか。どちらにしても最初が肝心なのだろう。一生の計は少壮の時にありというのもある。少壮とは20歳から30歳頃までということらしく、それは私にとっては通り過ぎた過去であり、一生の計画を立てるには遅すぎる。

 目の前の日めくりに"Adversity makes a man wise."、 日本のことわざで「艱難汝を玉にす」とある。この12年間は自分なりにささやかな苦労をしてきたと思うが、「艱難」などといわれると、さてと思い悩んでしまう。それなりに私は少しは玉に近づくことができたのだろうか。うーん。年を経ると人間は賢くなるとも言う。これもまた苦しい。

 思うに現在の日本に生を受けていることは本当に幸福であると言うべきだろう。今このときも飢餓や戦争、あるいは犯罪で多くの人々が人権を無視されて死んでいる。昔はさらにひどかった。極限ともいえる中国はもちろんヨーロッパも日本もアメリカもひどかった。人間として死ねなかった人々のなんと多いことか。未来も必ずしも明るくない。そのことを考えると、今の日本はいい? それを感謝する事から始めたい。私の苦労などはとるに足らないものである。

 5回目の年男(生まれた年を入れるなら)ということで、どうしても50歳を考えてしまう。50歳といえば織田信長の「人生50年」を思い浮かべる。かの時代ならもう"終わり"? この言葉は元々中国仏教が言い始めたものらしいが、現在の感覚では75歳といったところか。もう3分の1しかないのか、まだ3分の1が残っているのか。もっとも、明日はどうなるか分からないが。
 孔子の不惑、知命という言葉もまた私の脳には見あたらない。天命を知るなどとはおそれ多く、ひたすら惑い苦しむばかりで、不惑も遙かに遠い。このまま一生「不惑に至らず」となりそうだ。

 私はこの48年間というものいろいろなことに手を出してきたが、何一つ満足にできるものはないし、人に自慢できるものもない。なにもかもが中途半端である。「極める」という言葉にはあこがれるが、集中力がないという私の欠点のためか、およそ到達不可能だ。一生懸命やっているようなことでも、どこか諦めがある。

 そこで私はひとつのことを集中して深く掘り下げることができないので、開き直って多くの興味あることをひたすら少しずつ続けることにした。
つまり私の12年の計は何とか元気でいて、何でもこつこつ休むことなく長く続けること。仕事や微々たるものだが、社会への貢献はもちろん、趣味のテニスも英語もコンピューターも読書も絵画・映画鑑賞も旅行も山歩きもドライブも熱帯魚も、そしてカラオケも「惑惑」といきたい。(1999.1)


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