ゴミのささやき


 僕達はいつもいつでも日陰の身。立派に役に立つものも、黒い袋をかぶせられ、密かに密かに捨てられる。ところがどうしたことだろう。朝日もまぶしい、ファンシーなシースルーの袋に捨てられることになった。なんでもかんでも入れるので係のおじさんがけがをするのだと。と突然、僕たちのプライバシーの問題が出てきた。どうしてどうして出世したもんだ。

 けれどこんな日陰の身にプライバシーなんてあるのだろうか。
 ごみにプライバシーがあるなんて初めて聞いた。確かに有名人が多い東京では、ごみをあさって記事にしようなんていうやからがいるのだろう。「まあ、あそこの○○さん、鯖のみそずけ食べてんのね。ベルサーチのスーツ着て食べてるんだろうね。」などと言われるのだろう。捨てたもので自分の生活が覗かれると言うならそうされないように処理すればいい。ようわからん。

 事は黒いごみ袋を半透明の袋にしたことから始まった。東京のごみ行政が行き詰まりを示すこの事件は多くのことを語りかけている。

 こんな風に公共の問題になると、必ず「上からの押しつけでなくて、公共心を養って自らが気をつけるべき問題だ」などと言う人が必ずいる。反対じゃないが、こんな意見は夢の如しである。100年たっても1000年たっても日本では達成できない。
 見てみてごらん。車の窓からタバコの吸い殻ぽい。さらに灰皿そのまぽい。空き缶空き缶投げ放題。
 公園の掃除でもしようものなら次の日にはもう弁当のかす、空き缶、ポリ袋が散乱。一日だって持ちゃしない。海に行ってもごみだらけ。釣り針や糸が鳥達の命を奪うことを知りながらも後始末なし。観光地へゆけば壁に名前を落書き。私はバカですと言っているのがわからない。嘆いて新聞に投書している人がいるが、ポイ捨てする人間はこんな所読んだりしない。

 私はこの問題はやはりすべてしつけと教育にかかっていると思う。車からポイ捨てしてる人間の子どもはやはり同じ事をする。「自然は良いね」と言って湖でバーベキューの後の鉄板を湖で洗うやからの子どもは同じ事をする。親が先生。反面教師であることを悟ればいいのだがそんなことは不可能。

 地球環境保存について様々なことが言われているが、ウィリアム・ファイフ西オンタリオ大学教授は次のように述べている。「結局とるべき手段は正しい教育である。その中で特に“科学の能力”を育てる事が大切である。たとえば世界中のすべての子どもに、木は二酸化炭素を吸って、酸素を出す。”ということをしっかり身につけさせる。同時に人間は呼吸のために酸素を必要としていること、したがって木々は我々の生存に重要だということを理解しなければならない。」
自然の中でしつけをするのが一番。親が理解してくれればいいのだが。
(1993.10)


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