いも炊き
空気がピリッとしてきた。初冠雪がすでに伝えられ、冬の気配が近づいてくる。はっきりとは記憶していないが、この頃になると、西条市の河原で“いもたき”が行われていた。以前、新居浜にいたころ、石鎚山のふもと、加茂川の澄み切った水の流れを眺めながら鍋の芋をつっついたことを思い出す。水自慢の西条市は上水道がなく、人々は地下水を飲料水としていた。それほど水はきれいだった。新居浜には有名な別子銅山があり、この辺りの水は銅を多く含んでいるのか青い。澄み切った青である。本当にきれいだ。空が真っ青だと宝石のようにきらきらと輝く。
太陽があたふたと手の届きそうな西の山に消え、あたりが一瞬のあざやかなオレンジ色の化粧をした頃、小石がごろごろした河原で、少々くたびれたござの上に座った。参加していた人は多くなかった。頬を切るような冷たい風。顔色のよくないぼんぼりはそれでもアップテンポで踊り、人気のないゴザがエイのようにひらひら泳いでいた、そんな寂しい風景だった。いろいろな他の鍋物より地味で華やかさはなく、あっさりとしていて飾り気もなかったが、芋はとてもおいしかった。冷たい頬がじわっと温かくなった。
“いもたき”というのは秋の収穫期に川辺で里芋をはじめ野菜、こんにゃく、肉などを入れた鍋物を食べる行事で、東北地方では芋煮会といわれ、学校行事になっているところもあるらしい。岡山では“いもたき”というのは耳にしたことがなかった。
妻がこの時期になると作ってくれる。さっぱりしていて、サケのように生まれた川を思い出す、そんな気分になる。僕にはよくわからないがきっとにおいがあるのだろう。
河原で背を丸めて芋をかじりながら、ふと見上げると月が青白かった。
中秋の名月には及ばなかったが、川向こうの険峻な山に今にも突き刺ささってしまいそうなギラリと冴えた月が見えた。ゾクゾクするような美しい月だった。
川は月の光をあびて、青黒くきらきらと流れていた。水が流れる「月の砂漠」のよう。
倉嶋厚氏によると月の光はもちろん太陽の光の反射であるが、その反射の時や、地球の空気中を通るときに、青系統の光を余計に失うので、本当は日光より赤みが濃いのだそうだ。それなのに青く感じるのは、人の目は暗くなるほど青い光に敏感になるからだという。
このことは約150年前にチェコスロバキアの生理学者プルキンエによって研究され、プルキンエ効果と呼ばれている。科学的解析はこんな場合つまらない。
月の蒼い光、朔太郎ならずとも、月に向かって吠えたくなる。やはり、狼にでも変身してしまいそう。
(2000.11)