悪役になりきれなかったイヴァニセビッチ


 2001年のウインブルドンテニストーナメントはすばらしい決勝戦で幕を閉じた。長い間悪役を演じてきた、イヴァニセピッチは20代最後のウインブルドンで勝った。
相手はサーブアンドボレーの名手、オーストラリアのパトリック・ラフターである。お互いに2セットずつ取り合って最終セットの展開はそれまで、サーブ一辺倒のイヴァニセビッチに比べ、うならせるようなサーブアンドボレーで第4セットをラフターが鮮やかに手にしたときには賜杯はほとんどラフターのものかと見えた。

 イヴァニセビッチは今年は全く勝てていなかった。過去の実績で推薦出場という、彼の実績には恥ずかしく、不名誉な出場であったが、やはり得意なウインブルドンのコートでここまで勝ち登ってきた。当然のことながら決勝までは楽な道のりではなかった。自慢の左肩の故障とも戦っていた。

 準決勝は地元イギリス期待の星ティム・ヘンマンだった。流れが完全にヘンマンに傾いていた試合は日没、翌日持ち越しで、起死回生の逆転勝ちを納めた。ウインブルドンテニストーナメントでは照明を使わないのである。すべてのイギリス人はヘンマンの決勝進出を確信し、観客席のほとんどの観衆が猛烈すぎるほどヘンマンの応援をしていたが、この”これぞイギリス”というトーナメントの、頑固ともいえるシステムがイギリス人の夢を砕いたのである。そしてここでもイヴァニセビッチは悪役の名を恣にしたのである。

 過去3回決勝に臨みながら、イヴァニセビッチはその激しい性格とむらっ気で、主役を引き立てる格好の役者だった。傲慢とも見えるその表情やサーブをする前に相手をにらみつける眼光、激情を隠さない性格がはなつテニススタイルはテニスの枠を越え、見る人々をしばしば震撼させた。相手を猛烈なサーブでいじめ抜き、最後は自分のミスで主役の軍門に下るのだった。
今回も剛柔併せ持ち、テクニック抜群のラフターには華があった。容貌はなかなか精悍でクールだが、多分これは彼の趣味であろう、ひげを荒々しく伸ばし野武士のように見られたいという雰囲気があり、それがさらに彼の人気を高めていた。
彼がイヴァニセビッチのあの激しいサーブをしなやかに受けてイヴァニセビッチをうち負かすと、世界中のテニスファンは喝采するに違いなかった。
 イヴァニセビッチと同じように吼えまくっていたあのマッケンローには独特の愛嬌があり、吼えるときとのアンバランスがなんともいえなかったのだ。だから人気があった。イヴァニセビッチの場合はぴったりとはまり、どうも悪役そのものである。
しかし、彼は変身していた。第4セットに以前の彼らしい一面が顔をのぞかせたが、5セットになると、いまにも天に昇って暴れ出しそうな精神をコントロールした姿が見えた。そしてサーブはそれまでと違って、見違えるように正確にヒットした。とても肩を故障しているようには見えないサーブだった。
最終セットのタイブレイクのない、一つもミスをすることができない状況で、見事に自分をコントロールしていたのだ。劣勢ではあったが、7−7でラフターのサーブをワンチャンスでもぎ取った。
 

 ここで自分のサービスをキープすれば優勝だ。あれほど願っても願ってもかなわなかった賜杯が手に届きそうになったとき、彼が見せたものはあまりにも悪役にふさわしくない弱気な表情だった。そして4つのマッチポイントをとりながら3つもダブルフォールトをしてしまったのだ。胸に十字を切りながらラフターのボールを見つめていた彼の精神の脆弱さ。
最後の最後に悪役になりきれなかったイヴァニセビッチ。最後の苦し紛れのセカンドサーブをラフターがネットにかけたとき、彼は歓喜の表情でコートに倒れ込んだ。

 幸せそうな彼を見て僕は幸せな気分を味わった。ラフターもいい奴だが、ここは一度イヴァニセビッチに勝たしてやりたいという気持ちがなぜか働いて、いつの間にか必死で応援していた。
主役になったその顔は本当にすばらしかった。

 朝日新聞の記者はイヴァニセビッチが216本のサーブだけで勝った、それもテニスだと書いていたが、明らかに間違いである。サーブをキープするだけで勝てるほどテニスは易しくはない。
彼の勝利への執念と精神の脆弱さを見せつけたこの試合は有り余るテニスの才能を持つ天才をようやく悪役から解放させたのだった。

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