史上最弱柔道部員
オリンピックで田村亮子の優勝シーンを見て涙が出た。準決勝が苦しかったので、もうだめかと何度も思った。感激だった。しかし僕には柔道というと思い出したくない過去があった。
僕は実は高校時代柔道部員だった。昔と今の僕を知っている人は誰も信じない。
中学の同級生がいて、別に彼と仲がいいわけじゃなかった。小学校から一緒で友達の一人だった。とにかく大きな体でいつもエラソーな男だったが、実は気が小さかった。彼は柔道部に入りたかったのだ。僕はといえば体はすべて平均くらいのむしろ小柄な体格だった。その彼が一緒に行ってくれと懇願するので仕方なく引きずられるようにして柔道部の道場の門をくぐった。
というのはひ弱だったので、強くなりたいという潜在願望があったのだと思う。悩んだが決定的にしたのは家族、親戚中がみんなして猛反対したことであった。「おまえには絶対柔道なんかできない」と言う声に反発したのだった。
苦難の部活動だった。僕の同級生は僕以外雲を突く大男とまではいかないが、大きな連中ばかりだった。練習はとてもきつかった。筋肉トレーニング、ランニングに腕立て伏せ、なんやかやいっぱいあった。もうつらいだけ。柔道で強くなるためには体力、体重、センス、技術、根性もさることながら、腕力が必要だ。僕にはどれもなかった。あったのは愛想笑いと恐怖だけ。しばらくして、技も一応教えてもらって弱いながらも一生懸命練習した。乱取りという、自由に相手を投げ飛ばしていい練習があったが、いつも簡単に投げ飛ばされた。蚊が止まる時間すら立っていられなかった。僕の高校は元は旧制六高とかでなんだか知らないが柔道部は強く、長い伝統があり、特に寝技が得意だった。皆よく寝技を練習していた。
夏には怖い怖い合宿があった。恐ろしい中でももっとも恐ろしい先輩が来るのである。僕は弱すぎたので、その怖い先輩から視界の外だったのが幸いし、何とか合宿から生還した。
それでも寝技の練習のときは、当然のことながらいとも簡単に押さえ込まれるのだが、その時に必死に逃げようとしないと「落とされる」のだ。落とすというのは絞め技で首が絞まりそのため意識を失うのである。首が絞まると言っても頸動脈をずっと圧迫するのでそのために脳虚血に陥るのだろう。死ぬことはないが、その当時はものすごく怖くて、必死で暴れたので、大体許してくれた。
そんなことをしながら、止めることもなく続けていた。そんな中、1級の試験があり、無謀にも出場することになった。オリンピックなどで体重別になっているので、体重別と思われるかもしれないが、無差別である。つまり軽量ではむちゃくちゃ不利だ。5人一組でそれぞれ対戦し勝ち点で昇級するのである。
最初の対戦のとき、帰ろうと思った。相手は僕から見ると頭が天井に着くかと思われ、体重は今だったら小錦と良い勝負かと思われた。それにものすごい仁王様のような怖い顔。丸刈り、あばた面だった。「やーっ」といいながら手を挙げて、後ろに下がった。畳に手をつき参ったをして、すぐにその場を逃げ出したかった。それでも畳の端に沿って横や後ろに逃げた。しかし彼は大股で近づき、クレーンのような長い手を伸ばして、僕の首根っこをぎゅっとつかみ、腕を力任せに引っぱって、自分から倒れた。巻き込みわざといって、腕を持ち自分から倒れ込み、自分の体重で相手を倒す技である。ポッキーのような僕は抵抗などできるわけもなく肩から落ち、彼の下敷きになり煎餅になった。その時肩に強い痛みを感じた。鎖骨が折れていたのだ。こいつはこんな大きな体をして、こんな卑怯な反則技を使ったのだ。実は僕の相手はバカ力と体重があるだけで技もなんにもなかったのだった。
僕の左の鎖骨は複雑に折れていて、手術が必要だった。2週間ほど入院していたと思う。
その時にまた、家族と親戚がしたりとぎゃーぎゃー前と同じことを言った。
3年間が過ぎた。弱い僕は後輩にも投げつけられ、休憩の時間に隣のテニスコートの練習をさみしく眺めていた。
信じられないかもしれないが、3年間で僕は反対の鎖骨と左の前腕の骨折をした。3年生の夏合宿の前の練習でまたしても投げられ、左手を変な風に出し、バキッといった。僕は「あっ、折れた。」と言って病院へ行った。先生があきれていた。よほど運動神経が悪くしかも相当なバカなのだろう。3年間に3回も骨折するなんて日本広しといえども僕くらいではないか。
このとき感じたことは人の痛みは経験しないと絶対分からないということだった。このことは医者になってから非常に役に立った。もう一つ、人の言うことは聴くべき時があるということも。
(2000.9)