今年こそ十分紅葉を楽しもうと思っていたが、また果たせずに秋が去った。美しいときは短い。このあたりは昭葉樹林帯で常緑広葉樹が山をおおっているので、秋の表情が本当に乏しい。仮面様顔貌だ。松やうばめがしの常緑樹の中にハゼ、ナナカマドなどの鮮やかな赤がぽつりぽつり自己主張しているだけで、鉄色の鈍い光を放つのはうめきが聞こえてきそうな瀕死の松達である。もの悲しい。
山が錦絵のように美しいと思ったことがある。テレビに映る大雪山の風景を目にした時であった。これこそが落葉広葉樹の風景なのだろう。関西と関東は秋の色が違うという。関東にはコナラや、クヌギの雑木林、ブナやカンバの夏緑林など雑木林の独特の秋色があるのだという。こちらでも高い山の近くにゆくとブナなどが見られ、色彩豊かな山を見ることが出来る。
愛媛県の皿が嶺付近、三坂峠を通ったときの体験。碧空の下に山が一面それこそ赤、黄、緑の三色に彩られ、あでやかで濃密な秋の色を楽しむことができた。東山魁夷の「秋翳」という作品を思い浮かべたが、こちらは全山色とりどりの赤に包まれていて趣が違っている。
秋の夕日に散るやまもみじ・・・と唄われたモミジはカエデのことで、タカオカエデ(イロハカエデ)がその代表である。元来もみじとは秋に葉が美しく紅葉、黄葉するもろもろの木を指し、特定の植物ではなかった。カエデ類のモミジが特に美しいので、いつの頃からか自然にモミジといえばカエデを指すようになったそうだ。平安時代にはモミジすなわち紅葉としている。
カエデは葉内の糖分が多く日射が適当であるとアントシアンがよく作られて美しい赤色を呈する。美しい紅葉の条件は日中は爽やかに晴れて比較的に気温高く、夜間は急冷して湿気を含んだ停滞冷気のあることらしい。昔からのモミジの名所は渓谷と決まっており、みなこの条件を満たしている。新緑の頃、渓流の上にその美しい緑葉と肢体を優しくたおやかに伸ばしたモミジもまたすばらしい。
岡山には豪渓という“名所”があるが、水もきれいでなく二流だ。川面の上にしだれかかる紅葉の色っぽい風情がない。
何故最後に萌えるのか。線香花火のごとく、超新星のごとく、最後にきらめく。良いなと思う。生を終えるときに輝けたらいいのに。
「裏をみせ 表をみせて ちるもみじ」
良寛が貞心尼に送った歌である。あかあかと燃える思いをそっと歌った。最後に良寛は萌えたのだろうか。