新居浜の思いで


 私は現在倉敷市児島で小児科を開業している。ふとしたきっかけで縁もゆかりもないこの地で開業してもう5年になる。新居浜小児科医会に入会させていただいたのは昭和55年から58年の3年間である。大学に研修医としての1年間をあわただしく過ごしたあと、2年間三菱水島病院で勤務した後、新居浜十全総合病院に赴任した。そのころは小児科医は私一人でいわゆる一人医長であった。実力のないひよっこ医長だった。小児科医会には毎回出席させて頂いて勉強させていただいた。今思うと恥ずかしい思い出ばかりである。

 十全総合病院時代には、患者さんは少なかったが、ノルマが多かったので結構忙しかった。印象に残っているのは2週間弱の呼吸管理を要したギラン・バレー症候群と軽微な髄膜所見のため診断に苦労した結核性髄膜炎である。前者は少年サッカー部のキャプテンとして元気に走り回っており、後者は残念ながら重度の障害を残しているはずだ。もう少し早く診断できていればと今でも悔やまれる。ほかにもいろいろあったと思うが思い出せない。

 また私の2番目のこどもが生まれるというときに、長女が喘息重責発作をおこし、あわてふためいて、住友別子病院小児科に当時いらっしゃった佐々木恵子先生に往診に来ていただきことなきをえたことがあった。それから仙骨部奇形腫をもった未熟児をなすすべなく見送ったことがあり、この時挿管すらできなかったことがきっかけで未熟児を経験したいと思い、当時の岡山大学教授、木本先生にお願いをしたところ、松山赤十字病院に転勤を命ぜられた。ここはたいへんめずらしい症例が多く、おまけに西林洋平先生に厳しくしごかれ本当に勉強になった。未熟児と悪性腫瘍などを中心にもたせていただいたので蘇生や呼吸管理を勉強できた。新居浜にゆく前に松山で研修していたら、もっと新居浜のこどもたちのために働けたのではないかと思う。

 私にとって新居浜といえば太鼓祭と急峻な山々とその懐からこぼれ出す美しくて素敵な水達である。雪の冠を載せた山々は素晴らしかった。そしてお隣の西条の水のきれいなこと。その透明度と碧さはすざまじいほど。この辺りではちょっと見かけることはできない。いまもそうなのだろうか。小さかったこどもたちをつれてよく西条の加茂川に水遊びにいったが、その澄み切った流れは本当に素晴らしく彼の地が故郷であったらと今でも思う。太鼓祭については家内がたいそう気に入って、毎年見物に行きたがったがなかなか実現しなかった。ようやく昨年8年ぶりに新居浜を訪れることができた。高速自動車道で児島からわずか1時間10分ほどの距離である。昔は岡山に帰るのに6時間もかかったことを考えると夢のようだ。太鼓祭は太鼓台同士の喧嘩で一宮神社に入れたのが3台になってしまったのは残念だったが、楠達は昔のままで暖かく迎えてくれ、私のいた頃をジグゾーパズルのように、しかし鮮明に思い出させてくれた。残念ながら赤石岳などの山々はご機嫌斜めだったのかその鮮烈な山容を見せてはくれなかった。

 新居浜は私にとって良い街だったと思う。そういえば下の二人は新居浜で生まれた。 私は小児科医としていい仕事はできなかったと思う。あのころは小児科医としての実力だけでなく、患者や母親に対する思いやり、気使いが十分でなかった。しかし、新居浜の小児科の先生方、特に真鍋先生、三崎先生、住友の藤田、佐々木両先生、十全の山本先生ほか多くの先生方には未熟な私を温かく支えまた多くのことを教えていただき本当に感謝の念にたえない。新居浜で受けた恩を、今のこの地のこどもたちに返してゆきたいと思っている。


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