捨てる技術


 最近、「捨てる技術」という本が評判になっている。僕は読むつもりはない。僕は多分その通りに捨てられないからである。たとえばかなり前の雑誌でも捨てられず、かといって、読まれることもなく、あわれ部屋の片隅でその一生を終える。しかしながら彼らがふとしたことで素敵な何かを提供してくれるような気がするのだ。特別な出会いがあるかもしれない。それが妄想であることにはとっくに気付いているのだが。
 僕は整理能力が乏しい人間である。小さいときから親にちゃんと片づけなさいと多分十万回以上言われた。今も妻に倍くらい言われている。もっとも、多くの子どもたちはそんなものだが、僕は今でも整理・整頓がとても苦手である。だから、前に読んだ資料を後で調べようとしてもそれがどこだったか全くわからないことがしばしばである。そのときだけ自分を叱ることももう十万回は越えている。

 しかし、実は僕はいつもものを捨てようとしているのだ。曾野綾子さんが中年になったら、物事を収束していかなければならないと書いていた。そうなのだ。収束に向かい、ものを捨てるんだ、といつも決心する。しかし、いつも失敗に終わる。例えば、ここに「サライ」という雑誌がある。とても情報の質が良く、魅力のある雑誌だが、ほとんどは表紙と目次と写真を何枚か眺めて、雑誌の墓場に積む。

 これを整理しようとした僕はまずその一番上のサライと手に取る。自分に必要なものだけ、切り取ってファイルしておくつもりである。しかし、その雑誌の内容に引き付けられ、時間がいたずらに過ぎてしまう。結局、僕の部屋にはさらに新しい本や雑誌が堆く積まれていく。つい先日、この”積ん読”の塔は地震の時に崩れてしまった。
医学雑誌の現状はさらにひどい。最近では送られてきた袋に入ったままで積まれている。

 私は本屋さんで出会った本はできるだけ購入することにしている。そうしなければ読みたかった本がどれだったかわからなくなるし、読みたいと思った本は見つけたときに買っておけという人がいて、その人の意見を尊重しているのである。しかし、その本も哀れ、役割を果たせず"死に体"となる。「捨てる技術」を買っても積まれるだけ。
自分を捨てる以外ない気がする。
(2001.2)

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