俵屋騒動


 京都の由緒ある老舗旅館、俵屋の南側にマンションが建つことになった。俵屋は約300年も前に立てられ、京都の現存する最古の旅館として、優雅さと風格を備え、皇室や国賓、外国人観光客など多くの人々に愛されてきた第一級の旅館である。

 その旅館が苦悩している。南側に5階建てのマンションが建つということは南側の眺望はもちろん、日の光も妨げられる。俵屋は日本を代表する数寄屋匠と庭師が手塩にかけた空間の美しさ、そして素材と技と器などもてなしのすべてを最高に極めた位置にあるといわれている。その自慢の庭は、石や岩、樹木、苔や草花などが日の光のあたりかたによって繊細で微妙な美しさが引き出されるよう緻密に計算し尽くされているという。あらゆる場所に職人のこだわりが凝縮されていることは想像に難くない。

 マンション建設によって、この意匠をこらした庭と空間はほとんど無に帰すると言っていい。この問題で我々はあることを知ることになる。このマンションはその場所が商業地であるため、市が決めた条例に違反していないことである。そのマンションは間口が狭く、細長い建物で、俵屋からいうと南に壁のように立ちふさがるものである。

 京都というところはこのような問題で常に表舞台に立ってきた。京都の町は町屋といって、細長い和風建築が軒を連ねていて、必ず小振りであるが、よくまとまった中庭があり、その脇の路地を通して常に風が流れ、あの京都の蒸し暑い夏を涼しく過ごせる工夫がなされているという。
京都の町屋のもつ独特の洗練された風情は少々の時間では作り上げることはできないだろう。一度失われたらもう二度と再建は難しい。しかし、その一角一角が売られ、次々に高いマンションが建つことによって、風の道が塞がれ、方々の町屋が消滅してきているという。その歴史がなくなっているということだろう。

 京都市は景観を重視して、いろいろな配慮をしてきたという。しかし、この場所は経済地区であり、個人の所有になるこの土地に法の範囲内で建てられるものに対してはどうにも仕方がないという。
京都市はなんだかんだいいながら、経済最優先である。大切な文化財を枯れさせているといわれても仕方がなかろう。先の京都駅にしてもしかり。あの京都駅は侃々諤々のあげくできたものだが、情けないほど京都に不釣り合いで、今の日本を象徴している。沈没した戦艦大和のようだ。

 世界にはいろいろな都市があり、それぞれの特徴を持っている。歴史ある都市の美しさは本当に悲しくなるくらい美しい。その保存にかけた人々の熱意は遠く離れた日本にも伝えられてくる。 しかし日本はどうだ。日本の都市はどこでも、まったく知らない土地でも同じ様な風景で、一様に醜い看板とビルが建ち並び調和というものがまったく感じられない。よほど売り物にしているところ以外は街の美しさなどはかけらもない。経済を最優先した結果、全てのものが均一になり、それに拍車をかけるような異常な地価の高騰により、狭い土地に石塔のような表情のないビルがひしめいている。この手のビルは日本中に見られるが、本当に醜悪で息苦しくなる。その地域の景観に配慮がなされていない。
 残念ながら日本においては景観を十分考えて建築する人は少ない。狭い土地に加え、資金が第一だからである。仕方がないかもしれないが残念だ。そして、その北側の建物やそこで生活する人のことを考えて建てる人はほとんどいないと言っていい。高い建物を建てる場合、北側に影響を及ぼすのは必至であるというのに。
日照権というがほとんど"ざる"に近く、建築側の権利が保護されている。

 同じ様な問題が倉敷でもある。美観地区の周辺に経つ、ビルの高さで問題になっている。
京都の問題は一つの企業である、俵屋という旅館の問題であるが、創業300年の歴史を持つ建物となると一企業の問題とはいえないのではないだろうか。これだけのものになると、すでに歴史遺産であると考えるのが普通であろう。もちろん私は古の都から遙か遠く辺境に住む人間であり、京都も俵屋もほとんど知らない人間と言っていい。そして、偉そうにいえるほど、京都が好きというわけでもないし、資格もないと自覚している。偏見かもしれないが、鼻持ちならないところのある京人を必ずしも好きとはいえない。しかし、である。京都はやはり京都なのだ。京都以外に京都といえるところは日本中何処を探してもない。だからこそ京都市はその責任を真剣に考えてほしい。いまの京都をもって世界に対して胸を張れるものかどうか。

 経済効果のみを重視してきた結果、今まで取り返しのつかないどんなに多くの大切なものを失ってきたか、もう一度考える必要があろう。

 俵屋は1864年(元治元年)に蛤御門の変で焼失するという苦難を乗り越え、再建され現在まで生き抜いてきた大切な遺産である。その含まれたすべての空間の保存を第一に考えるべきであろう。
このような暴挙を許してはなるまい。このままではじわじわと京都中の"俵屋"が消滅し、京都は平凡な都市になる。いやもうそうかもしれない。加えて重要なことは意趣をこらし洗練された何ともいえない空間や光の妙をつくる職人、庭師もまた次第にいなくなる。その何百年をかけて伝え、磨き上げられた技術を後世に伝えることはできなくなる。こうして日本の文化や歴史遺産は消滅していく。
何とかこれを防ぐ手だてはないのだろうか。

(1999.12)

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