「命を大切にするということ」
昨年の神戸の中学生による殺人事件以来、未成年の驚くべき事件が続発しているが、これらを未然に防ぐための有効な手だては未だなされていない。腫れ物に触るような痛々しい状況である。これまで長い時間をかけて鬱積したものが一気に吹き出てきたようだ。
いわゆる「命」が捨て置かれているのは明らかであるが、私には「命を大切に」と念仏のように繰り返し言ってみても子どもたちがそのまま聴くとは思えない。
人間は虫とみれば殺虫剤を振り撒くように、いとも簡単に動物を殺戮している。あるいは互いをも殺し合う。他の生物に対してもしかり。また、不本意ながらも私たちは生きていたものを”殺して”食べることにより生きている。この点を子ども達につかれたら、我々は答えに窮する。もし本当に全く殺生をしないというのなら、仏陀のように道を歩く時生き物を踏まないように気をつけなければならないが、もちろんできるはずもない。
このことをきちんとふまえて、人や生き物は自らが生きていくために殺生をしなければならないのだということを子どもたちに理解させる必要がある。その上で彼らに生きとし生けるものの命をかけがえのないものとして大切にすることを心と体でもって認識してもらうことが重要であろう。
ではいったいどうしたら、子どもたちに「命を大切に」させることができるのか。そのために必要なことは彼らに自らが生きることを心から大切だと感じさせることだ。そして家庭の中ではもちろん、学校でも地域社会でも愛されることが必須であろう。愛情に育まれるということである。事件を起こした子どもたちは本当の意味で愛されてはいなかったのだと思う。
生命の誕生はそれはそれは奇跡の連続の結果であり、生命のすばらしい喜びがあるが、しかしまた苦しみや悲しみを伴う。花や小さな生き物に触れさせ、そのはかない生と死を考え、一つ一つの喜びや悲しみを教えよう。ルソーが言ったように元々人間には憐憫の情を感じる心がある。もちろん子どもの心にはもっと純粋な形で備わっているから、それを意識させることが重要なのだ。
命を実感するというのは「生きていることが楽しい、すばらしい」という感じを心から持ったときである。このような体験はほんのちょっとしたことで得ることができる。こども達の持っている純粋な感性をいろいろな経験でしっかり研磨しておきたい。
また、小さいときから、生き物を殺すことは理屈でなく「いけないことなんだ」ということを繰り返し教育することが非常に大切だ。今のこども達は「死」というものに実感がない。核家族で死と向き合うことが大変少ないこともあろう。また、コンピューターゲームの中では毎日たくさんの「電脳生物」がいとも簡単に殺されボタンーつで再生する。 テレビでは凄惨な殺人の場面が横行している。これらはもう許容できないこととなりつつある。
最後に老いと死後のこと。性教育の授業はあっても、老いや死、また死後のことの教育というのはまったくない。このことをやはり真剣に考えてもらいたい。今や日本人は宗教を捨ててしまったが、子どもたちにわかりやすい宗教や哲学の授業がこれからの時代に
は本当に必要になる。これらは学校と家庭で失われたがそれぞれに復活させたいものである。